10月上旬、ラジオを聞いていたら速報でノーベル賞受賞のニュースが入った。ろくなニュースがない昨今、久々に気が張れる明るいニュースだった。自然科学の分野での日本人の受賞はしばらくなかったので、「もう取れないのかな」と思っていたところだった。本当にうれしい。しかも、生理学・医学賞で坂口志文氏、化学賞で北川進氏の、2賞受賞という快挙である。
生理学・医学賞における「免疫の制御機構」の解明は、自分の関係する自己免疫疾患に直接かかわっているのだから、解説を聞くにもつい力が入る。制御性T細胞なる言葉は初めて聞いたが、こういう長年の基礎研究があってこそ臨床における有効な治療につながる。化学賞は、金属有機構造体の開発に関する研究である。穴だらけの金属内にガスや二酸化炭素を閉じ込め回収することで、環境分野に革新をもたらした。この穴のことを北川氏は「無用の用」と述べていた。何よりうれしかったのは、両氏を取り囲む学生や若手研究者の声が弾んでいたことである。お二人の受賞がどれだけ彼らの励みになることかと、受賞の喜びに沸く声が響く中、陰ながら応援する気持ちで涙が出た。
この30年ほどを考える時、大方の日本人は「ひどい時代だった」と感じることだろう。新自由主義の嵐が吹きすさぶ中、日本はバブルの崩壊と金融危機に対処できず、新しいビジネスモデルの構築にも出遅れ世界の波に乗れなかった。また、1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災ほか多くの災害に襲われ、国土と国民の暮らしが大きく傷ついた。企業の倒産やリストラで弾き出された人々の困難さは嫌というほど聞いたし、終身雇用を前提としていた日本社会の仕組みが根底から崩れ、世界の常識である非正規雇用が一般化した。これによって経済的基盤が整わず、家庭をもてない若者が増え、少子化が進行した。大変だったのは現役世代だけではない。年配の労働者も定年が逃げ水のように先延ばしになり、職にありつけない、あっても賃金はよくて7割ほどという苦汁を飲まねばならなかった。それまでの老後の設計が崩れたり、突然「老後資金2000万円」問題が持ち出されたりして、将来を悲観する人が増えた。
この間、国は消費税を導入(1989年4月、3%)し、1997年4月に5%、2014年4月に8%、2019年10月に10%と引き上げていった。さらに相続税改定による大増税(2015年1月)および健康保険、年金、介護保険等の徴収料を増やしていったため、国民は年収の半分を税と社会保障費に持っていかれるようになった。農民が年貢として収穫物の約40%を領主や幕府に納めていた江戸時代の「四公六民」よりひどい重税と言われるゆえんである。その一方で、公共サービスを縮小していったのだから、何一ついいことがない国民の不満が募り、疲弊していったのは当然だったのである。
しかし数年前に明らかに潮目が変わった。最適化した労働で最低価格の商品を提供するという手法で、新自由主義者が国境を越え、世界を股にかけて傍若無人に好き放題し続けた結果、様々なひずみが生じ、これ以上放置できないことが明らかになった。市場原理に従って富の極端な偏在が進んだため、持続的な社会の維持が困難になったのである。リーマンショックがよい例で、新自由主義者は破綻した企業が国民に及ぼす被害には無関心で、国家が財政出動して破綻した経済を回復させるほかなかったのである。このような無責任な経済的手法は結局のところ長続きできない。
これにコロナ感染症とウクライナ戦争が拍車をかけ、政治主導の世界秩序が完全に復権したと言える。いわく「自由主義経済が浸透し世界の経済的相互依存が進めば、戦争は起きない」、いわく「自由主義経済が行き渡って国が豊かになれば、民主主義国となる」・・・。新自由主義者の尻馬に乗った者たちが言い広めた言説を、今苦々しく思っているのは、ドイツであり、アメリカであろう。ロシア産天然ガスの供給を受け、電気自動車によるEU域内制覇を試みたドイツの思惑はうまくいかなかったし、アメリカとの交渉において、中国は体制を揺るがす可能性のある構造改革には手を触れさせなかった。
日本は、無為無策と言えばその通りなのだが、ゼロ金利とデフレを通して、或る意味みんなで等しく痩せ細り貧乏になったと言える。前述したように、現役世代も高齢世代も皆不満があり、生活に困難を感じている。よもや国も好き好んで公共サービスを減らしているわけではあるまい。人口動態を勘案すればそうするしかなかったのであろう(と思いたい)。結局のところ日本は、落語にある「三方一両損」を選んだのではあるまいか。グローバル経済によって格差が拡大したのは事実である。だが、収入の低下は低所得層に限ったことではなく、中流層も地盤沈下した。年収が上位20%に入る水準が1996年には974万円であったが、現在は800万円程度だと聞いた。言ってみればみんな揃って低きに落ちたのであって、諸外国における上位層と下位層および底辺層の所得格差はこの程度のものではないのである。
「これまで試された他の全ての形態を除けば、民主主義は最悪の政治形態である」と言ったのはチャーチル W. L. S. Churchillであるが、私も同感である。始終命の危険や理由なき拘束に怯えたり、自由が大幅に制限されるのを甘受しなければならない日常には耐えられそうにない。世界を見渡せば基本的人権が保障されない地域はたくさんある。また、民主主義を標榜していても、鶴の一声で生活環境が根底から変わるような国も御免こうむる。「よりマシな国はどこか」という観点で眺めれば、「日本はそう悪くない」と思えてくる。最低限の「健康で文化的な生活」を送れるよう憲法で規定されているのだから。
日本はデフレを脱却し、物価上昇の時代となり、大企業では新卒初任給の大幅アップや春闘でのベースアップも回復しつつある。よい兆候である。あとは中小企業の賃上げと産業界全体の生産性の向上が達成できれば、ゆっくり上昇できるはずである。何と言っても労働人口が減少していく中で、若者の就労に関しては売り手市場のため、将来に希望を持って人生設計をしていただきたい…。などと考えているうち、なんだか今は低迷状態にある日本が愛おしくなり、気持ちが上向いてきた。自分の利益だけを声高に叫ぶ人は確かにいるが、年配者を思いやる若者や若い世代を気遣う高齢者が非常に多いと感じている。
長かった。ここまで皆で我慢しながら縮んできたのだから、そろそろ明るい展望を持ちたい。政府に要望したいことを一つ挙げるなら、「消費税の廃止」、これに尽きる。それによって日本の内需の落ち込みが大きく改善され、日本経済の力強い復活を後押しすることを、一消費者として確信している。今度は車輪が逆回転し、消費者、企業、政府の「三方一両得」となるだろう。