猛暑疲れが出る時期である。ラジオを聞いていると、たまに「人生百年」という文言が聞こえてくる。NHKラジオ第1の「人生百年プロジェクト」という番組案内で、「人生100年時代に、健康、趣味、学び、そして心の持ち方をリスナーのみなさまと考えていきます」というのがその趣旨らしいのだが、「それ、あんまり連呼しない方がいいんじゃないの?」と率直に思う。ラジオ第1はバラエティに富んだ様々な企画があって感心することが多いが、やはりリスナーには高齢者が多いためこのような企画も出たのであろう。聞けばきっとためになる面白い番組であろうことも予想できる。
しかし私はこの「人生百年」を聞くたびに、なんとなく気が沈むのである。長寿は喜ばしいことであり、そこに大きな価値を置く方々がいるのも大変結構なことだと思う。しかし、私自身はとっくに還暦を過ぎているにもかかわらず、直感的に「人生百年か、長いな」と思ってしまう。寿命に比して健康寿命は恐らくずっと短いことを思うと、特に介護人材を望めない私の世代の見通しは暗い。同世代の友人・知人はみな「介護保険料は取られるだけで終わる」ことを覚悟している。
先が見えてきた世代でさえこうなのだから、若い方々には百年はどれほど遠くに感じられることかと思う。数年前のことだが、或る政治家が若い人に「政治に望むことは何か」を尋ねたところ、「安楽死する権利を法制化してほしい」と言われたという話を聞いた。私は絶句した。そうなのか。今の苦しい現実を生きている20代の人にとって、自分が100歳まで生きるということは想像するだけでも耐え難いことなのであろう。
老後資金2000万円問題以来、若い人にも長期的な視野に立った資産形成が強く意識付けられたと言ってよいと思う。しかし、今の年配者でそんなことができた人はいったいどれくらいいるのか。若い時は目先のことで手いっぱいなのが普通で、それを一つ一つこなすことで何とか今に至るという人が大半ではないだろうか。若者に八十年先のディストピアをリアルに意識させてどうする。その年代からあまりに遠い未来を視野に考えても、大多数は思考停止になり気が滅入ってしまうのではないか。誰でも自分の若い頃を思い出せば納得するはずである。
私は小学四、五年生の頃、特に大きな悩みは何もなかったのだが、近所の高校生のお姉さんを見て「悩みがなさそうでいいなあ」と思っていた。小学生にとって高校生はかなりの大人であり、そこにたどり着くまでは遥か遠い道のりと思っていた。実際には高校生には高校生の悩みがあり、また大した大人ではないと分かった。結局人はその時々の課題や困難に取り組んで乗り越えていくしかなく、その意味では人生はいつも現在形である。「将来のことが心配」と言う高齢者に対して「あとは死ぬだけだろう」と答えた某高名な解剖学者くらい飄々としていなければ、とてもこの先乗り切れない気がする。かつて一時期日本社会にあった根拠なき楽観的気運はもうどこにもない。いま私たちがいるのは、これから起こる悪いことをかなりの精度で言い当てることができる社会であり、事によってはもっと破滅的な世界になる可能性がある地点である。
がん専門医、里見清一が『医学の勝利が国家を滅ぼす』 (新潮新書)を書いて世間を震撼させてからもう9年になろうとしている。この本が社会に与えた波紋についてもっと正確に言うと、みな薄々そうだと気づいていたことを、医者の立場から歯に衣着せぬ言い方で公然と述べたため、社会に一石どころか爆弾を投じることになったのである。その後、『「人生百年」という不幸』(新潮新書、2020/1/16)および『患者と目を合わせない医者たち』(新潮新書、2025/6/18)も出て、医療を巡る困難な問題は改善するどころかより深まっているのが分かる。海外ではずっと前から当然のことだったのであろうが、日本でも人の命にかかわる医療の分野に「働き方改革」の波が及んだのでは、別の困難な事態が生じるのは必至であろう。一方、医療財政の抜本的な改革なしに医学が進歩し続け、家計及び国家財政における医療費の増大はすでに限界を超えている。そして現在、寿命が少しでも延びるのであれば投薬料だけで年に数千万円かかる治療を誰も止められない。治療を望む患者も治療を施す医師も薬を作る製薬会社も、誰も悪くないのである。私も大いに医療の世話になっており、神様の定められた天寿を全うするまで生きたいと思っている。ただ、「人はいつか死ぬべきもの」という真実を忘れずに、その時を見極められたらと思う。
推理作家ハリイ・ケメルマンHarry Kemelmanの軽妙な短編に『九マイルは遠すぎる(The Nine Mile Walk)』がある。“A nine mile walk is no joke, especially in the rain”というたった11語の何気ないセンテンスから、ありとあらゆる推理を駆使して実際に起きた事件を解決してしまうというこの話は、読み手にとって間違いなく喝采物である。だが、八十年近く前に書かれたこの鮮やかな作品をまねて、「百年は長すぎる」と言ってみても、もはやミステリにはならない。医療どころか気候変動一つとっても、“A hundred-year lifespan is no joke, especially in such a tragic world”は、もはや相当数の人の頭を離れない現実になっているからである。