保険会社との闘いは第2段階に入った。保険会社から「却下」の文書回答が来たのである。前回は電話による知らせだったので「なぜこのように大事なことを電話で?」と訝しく思ったのだが、今回は封書である。電話での通告は恐らくこちらの様子伺いであり、それに対して送付した反論文を読んで、課長名で文書が送付されて来た。文面が示されているのなら反駁しやすく、望むところである。
また、ご丁寧にもその判断に意義がある場合に申し立てる場として、そんぽADRセンターについてのパンフレットが同封されていた。それによると、どこの保険会社であるかを問わず困りごとを訴えることができるという。「相談」「苦情」「紛争」という形式のどれかを選んで異議を申し立てると、当該保険会社の本社での対応になるらしい。このパンフレットを送ってくるくらいだから、 当該部署と本社は結託しているのだろうと推察されるが、取り敢えず「苦情」を訴えることにした。異議内容を記した書類をそんぽADRセンター宛に送ると、そこから本社に解決依頼が届き、そんぽADRセンターの見守りの中で2か月たっても解決しない時は、「紛争」へと進むことができるらしい。その書類づくりに着手することにした。
さて、保険会社からの文面を一読して驚倒、思わず「これはすごい!」と叫んだ。よほど論理力がないか、日本語が理解できない人にしか書けない文なのである。
ざっと述べると、送付された文面は大きく5つの要点にまとめられていた。その中で自社の主張については、「調査に伺った鑑定人・調査員が〇〇〇〇について確認しました」と書き、こちらの主張については、あちらの推論に基づいて「調査に伺った鑑定人・調査員が〇〇〇〇について確認できませんでした」と書いている部分が多い。「確認したもの」についても「確認できなかったもの」についても、自社の推論から導き出した結論の証拠として述べられており、まさしくその証拠が別の、もっと合理的な推論を証拠立てるものだということに、保険会社は思い至っていない。まさしく自分で認めた証拠こそが、やがてブーメランのように自分の主張を切り裂くものになることをつゆ考えていないお気楽な文なのである。
第一、冒頭で、給湯管配管の場所について「〇〇〇〇とお見受けしました」と書いてあるのだが、そもそもこれが事実誤認なのである。そんな基本的なことを「お見受け」しただけでいいはずがない。「そういう給湯管破損についての根本的なことを調査に来たのではないのか。いったい何しに来たのか」との疑念を禁じ得ない。
したがって、反論文は相手の土俵を利用して、ほぼ一文ごとにこちらの反論を展開するという形式でおこなった。保険会社の主張とこちらの見解が交互に並べられているので、読みやすいはずである。
もう一つ気を付けたことは、これまで保険会社がいかにでたらめな主張をしてきたかということが伝わるように、これまでの経緯をそれなりに詳しく述べるということである。繰り返しをいとわず、いかに保険会社が自分に都合の悪いこちらの反論を無視してきたか、について詳述することにした。
今回は反論の第2段階であるため、これまで以上に建築に関する専門的な知識を要した。もちろん私にはないものである。これについては我が家のリフォームを成し遂げてくれた建設会社の工事責任者の助けを仰いだ。殊にこの4か月の間ずっと支えていただいた方であり、超多忙の中、時間を見つけては来訪して、様々な計測をしたり、精密な床下構造の解説図を作成したり、集合住宅全体の竣工時図面を調べたりしてくれ、また床下に溜まった水の量を計算した「工事責任者見解書」を作成してくれたのである。この方に対してはどのような感謝の言葉でも足りないだろう。ただもう深謝のほかはない。
この方のレクチャーを受けて、私もだいぶ家の構造について分かるようになった。だから自信を持って反論文が書けたのである。悲しい事件だったが、水漏れ事故によって生じた我が家の被害は、寸分の隙も無く自然法則に従った当然の結果だったということを、初めて深く悟った。
「無理が通れば道理が引っ込む」とはよく言ったもので、保険会社の「無理」と私の「道理」を分けたのは「事実に基づいているかどうか」という一点に尽きる。先方の保険会社は「そんなに多量の滞留水があったはずがない」という根拠のない仮説から出発してその後の論理を組み立て、「だから、生じた被害は別の理由による」と強引に結論付けたのに対し、当方は「実際に多量の滞留水があり、大きな被害が出た」という事実から出発したことによって、一見不可思議に思われる被害の現れ方のメカニズムを解明できたのである。大きな学びができ、これもまた神様に感謝である。
書類の完成までには校正に長けた友人の助言も役立った。私は多くの助けをいただいてここまで来たのである。保険会社から封書を受け取ってからおよそ2週間で提出書類は整った。我ながら会心の出来である。これを郵便局から郵送し、本当に晴れ晴れした気持ちになった。これで終わりならいいなと思いつつ、たとえそうでなくても最後まで闘う気持ちを固めている。