家のリフォームが終わり、これまで別の部屋に退避させておいた荷物を片づけ戻している。品物の半分は前に置いていた場所を忘れているから、部屋の中は前とはまた違った様相を呈している。片づけの移動時に要らないものを相当処分し、今また片づけ戻しに伴い、さらに要らないものを捨てた。確かにまだ部屋には物品があふれている。しかし、今回の模様替えで分かったのは、それらは「あれば便利」というに過ぎないのであって、実際はなくても一向にかまわないものだということである。老後がまた近づいた。
先日、クリスチャンの精神科医の講演を聴いた。後期高齢者か少なくとも七十代の方々を念頭に置いた話だったのかもしれない。ただ、私にとっては全て「その通り!」と納得できることばかりで、目新しい気付きはなかった。そんなふうに言うとずいぶん生意気に聞こえると思う。だがそれもそのはずで、私が「晩年を迎えた」とはっきり意識したのは、母が亡くなった四十代前半の時だったからである。即ち、私は老後について二十年以上考え続けてきた。これから先、まだ二十年以上生きるかもしれないと心の準備をしつつも、明日命が取り去られてもいいように日々生きているつもりである。
住まいの心配というのは生きている間だけのことである。まだ気力・体力のあるうちに、水回りのリフォームという、家の中では最も重要な設備を中心に、「安全・安心」な更新ができたことは、示唆的だと思う。一番よい時期を神が与えてくださり、また成し遂げてくださったのは、詩編127編の1節にある通りである。
主が家を建てられるのでなければ、/建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、/守る者のさめているのはむなしい。
この三か月、あまりに事態が急激に進み、あれよあれよという間に完結したので、正直なところまだ実感がない。ただ、そこに至るまでの気の滅入るような困難を乗り越えて、また一つ必要な老後の備えを神様がなしてくださったことは疑いようがなく、そのように私を顧みて、慈しみをくださったことに心からの感謝をささげる。