2025年6月27日金曜日

「ばね指」

  朝はだいたいラジオ「マイあさ」を聞いているが、今週の「健康ライフ」は「手や指におこる痛みとしびれ」のシリーズを放送していた。「変形性指関節症」や「手根管症候群」という聞きなれぬ症状名を聞いたが、この番組はまさしく私のための放送だと感じた。しばらく前から、私は片方の手がいわゆる「ばね指」になってしまっていた。しかし、もっと大きな問題(家のリフォーム)があったため、目をつぶってきたのである。他にも外せない通院があり、体調に変調を来さない限りなるべく受診はしたくないという事情もある。経験的に言って多くが加齢によるものだからである。

 しかし一定の年齢になれば、整形外科は別建てで考えるほかない。内科の病気とは別に、関節や骨及び腱の不具合は避けがたく生じる。ラジオの話に背中を押され、さっそく整形外科を受診した。私の場合痛みはひどくないが、弾発現象が強く、自力で指が伸ばせない。あっさり「ばね指」の診断で、特に加齢ということでなくてもよく使う指はそうなるとのこと。治療法として、塗り薬、注射、手術を提示された。手術までは全く考えていなかったので、取り敢えず注射を選択、一週間後に治っていなければ手術と言うことになりそうな気配である。

 帰宅して手術について調べると、「皮下腱鞘切開術」というらしく、医者が言っていた通り10分から20分ほどで終わる手術で、腱鞘を切開して腱がスムーズに通過できるようにする手術だと書いてあった。手術の動画は怖くて見られなかったが、簡単な手術であるようだ。

 「注射したところを濡らさないように水仕事は手袋をしてください」と言われ、注意を払いながら過ごしてみると、実際、手を使わない雑事はないことを実感した。いつもするちょっとした動作(デイバッグを背負う、ポットからコーヒーを注ぐ、食品の上蓋となっているシールをはがす、タオルを絞る、キーボードをたたく、草むしりをするなど)を、指に負担をかけずに行うことはまず無理である。家事など手抜きで過ごしているから、毎日それほど負担をかけている気はしなかったが、自分の身体への感謝をなおざりにしてきた。労わってあげなければと思う。加えて、私は整形外科のよいところをすっかり忘れていた。他の病気と違って「治る」ことが結構あるのだ。やはり整形外科は別建てで考え、「これからはなるべく軽いうちに受診しようかな」という気になっている。


2025年6月21日土曜日

「幾何級数的に増える選択肢」

  商売に携わる方々はさぞ大変だろうなと思う。報道番組は朝から晩まで「トランプ関税」の話題である。ジョン・K・ガルブレイスの『不確実性の時代』(TBSブリタニカ/講談社)が世に出たのは1978年で、現在同じく「不確実性の時代」と言っても、もはや隔世の感がある。思えばあの頃はまだ確実なものがちゃんとあった。今は、これから先すべてにわたって不確実なことだけが確実なこととして眼前にあるのである。

 商売と無縁の一般人も社会・経済状況に振り回されるほかない日々を送っている。米価はいつ落ち着くのか、取り敢えず早めに注文した通販の米はいつ到着するのか、この暑さでお米は冷蔵すべきか、E8系の故障で運休の東北新幹線は安心して乗っていいのか、こういった問題が解決しないと帰省時期も不確定なのである。暑さがおさまらなければ、お米を受け取って冷蔵庫に入れてから出発しなくてはならないし、届くのが朝ならその日のうちに出発できるが、夕方なら翌朝出発にならざるを得ない。運行状況にも注意を払って、新幹線にまた不具合があればしばらく待機、または出発を延期せざるを得ない。

 以前は当たり前にできていた「予定通りに出発」ということさえ、いくつもの場合分けをして考えないといけない状況になっている。その場合、採用されるのはたった一つの選択肢だけで、あとの全ては考えるだけ無駄となる。これがビジネスとなれば、将棋の対局並みの先読みをそれこそ気が遠くなるくらい重ねなければならないだろう。

 結局予定通りの帰省日に出発できたが、原因不明の車両停止事故以来、E8系の車両を単独で走らせてはいけないらしく、無人の「つばさ」何両かを先頭に、「やまびこ」を連結させたおかしな新感線に乗るはめになった。座れたのがせめてもの幸運。福島駅では山形新幹線に乗り換える人が、反対側のホームとはいえ、何百メートルも歩かなければならないようだった。お年寄りや荷物の多い人は本来しなくていい移動のために、大変だろう。故郷は6月半ばからもう真夏の暑さ、夕方ざあーっと夕立が来た。こういう自然現象は変わらない。8月の子供の頃の夏休みを思い出した。あの頃は何でも単純でよかったな。


2025年6月14日土曜日

「老後の備え」

  家のリフォームが終わり、これまで別の部屋に退避させておいた荷物を片づけ戻している。品物の半分は前に置いていた場所を忘れているから、部屋の中は前とはまた違った様相を呈している。片づけの移動時に要らないものを相当処分し、今また片づけ戻しに伴い、さらに要らないものを捨てた。確かにまだ部屋には物品があふれている。しかし、今回の模様替えで分かったのは、それらは「あれば便利」というに過ぎないのであって、実際はなくても一向にかまわないものだということである。老後がまた近づいた。

 先日、クリスチャンの精神科医の講演を聴いた。後期高齢者か少なくとも七十代の方々を念頭に置いた話だったのかもしれない。ただ、私にとっては全て「その通り!」と納得できることばかりで、目新しい気付きはなかった。そんなふうに言うとずいぶん生意気に聞こえると思う。だがそれもそのはずで、私が「晩年を迎えた」とはっきり意識したのは、母が亡くなった四十代前半の時だったからである。即ち、私は老後について二十年以上考え続けてきた。これから先、まだ二十年以上生きるかもしれないと心の準備をしつつも、明日命が取り去られてもいいように日々生きているつもりである。

 住まいの心配というのは生きている間だけのことである。まだ気力・体力のあるうちに、水回りのリフォームという、家の中では最も重要な設備を中心に、「安全・安心」な更新ができたことは、示唆的だと思う。一番よい時期を神が与えてくださり、また成し遂げてくださったのは、詩編127編の1節にある通りである。

主が家を建てられるのでなければ、/建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、/守る者のさめているのはむなしい。

 この三か月、あまりに事態が急激に進み、あれよあれよという間に完結したので、正直なところまだ実感がない。ただ、そこに至るまでの気の滅入るような困難を乗り越えて、また一つ必要な老後の備えを神様がなしてくださったことは疑いようがなく、そのように私を顧みて、慈しみをくださったことに心からの感謝をささげる。


2025年6月7日土曜日

「工事の終了」

  1か月にわたるリフォーム工事が終わった。最後の週は仕上げや追加の小規模な工事だったので、私ものんびり過ごせた。圧巻だったのはその前の週である。この週は家具屋さんの工房から運ばれた家具の据え付けと、クロス貼り職人さんによる壁紙貼りが大きな作業だった。

 プロのクロス貼りというのをはじめてみたが、集中力がすごかった。お昼も食べずに黙々と仕事しており、リビングのクロス貼りは離れたところから見ることができた。背後から見たので手元は良く見えなかったが、思うにクロス貼りに不可欠な特質は精密さと思い切りのよさなのではないかと思う。目標を定めては迷わず貼り、カッターか何かでズバッと切り裂く胆力が要りそうである。あっという間に壁一枚が貼り上がった。お見事というほかなく、ため息が出るほど美しい。

 大工さんの方は家具の据え付けという気の張る仕事である。大きな収納家具が3つもあり、こちらも細心の注意をしながらすごい勢いで作業している。寸分の狂いなくぴったりと収めるための奮闘が続く。後で「どうしてこんなにぴったり入るのですか」と聞くと、「ぴったりに造ってあるからでしょう」と禅問答みたいな答えが返ってきたが、そんなに簡単なことであるはずがない。もちろん元々の計測は決定的に大事であるが、実際には微妙に大きいサイズを少しずつ丁寧に削って嵌め込むようである。誠に美しい出来栄えである。

 クロス貼りの職人さんと大工さんは、この仕事に二日間かかりきりで、それこそ鬼のように働いていた。そして、この作業が済むと居室はもうすっかりリフォームが終わったかに見える趣となった。

 漏水による修繕工事とは別に、浄水器の取り付けと網戸の改修をお願いしているほかは、清掃作業が入って終了である。網戸の改修というのは、集合住宅の一部に使われるプリーツ網戸のことで、もしかすると引き戸にできない部分の網戸として採用されているのかもしれない。しかし、これは見栄えは良いが機能的には重大な欠点のある製品の典型である。プリーツの性質上上下に隙間があり、防虫に全幅の信頼をおけないし、とにかく網目がやわで弱い。この点は清掃に来ていた方とも話したが、清掃もしにくく業者泣かせのようである。私はキッチンや浴室の窓の網戸を枠ごと造り換えて、手前に引く普通の型にしてもらった。些細なことであるが、私にとっては長年悩みの種だったので、ここが新しくなるのはとてもうれしい。

 このようにリフォーム工事では実に多くの方々のお世話になった。ディスクワークだけでなく実地にきびきびと作業する方々を見て、「お仕事頑張ってください」と、素直に労働の尊さを感じられた。誰もが良い仕事をしたいと思っているのである。もちろん私も良い仕事をしていただきたい。私ができることはわずかでも快適に働ける環境を作ることである。時期的にはあまり暑くならないうちで助かった。或る大学の先生が書いていたことだが、研究室のエアコンが効かず、研究用図書とともに扇風機を予算請求したら、その部分は削られたという話があった。研究書は直接研究に役立つが、扇風機は研究者の進退に働きかけるものだからという理由らしいが、この先生は「研究を支援するというのは即ち研究者を支援することである」という趣旨のことを言っていた。私はこの考えを全面的に支持する。人は心身が整った時にこそ最高のパフォーマンスを発揮するからである。これは研究者に限らない。もちろん職人さんもそうである。この場合、私にできる環境整備と言うなら、それはもう「お茶出し」、これしかない。いずれにしても、働く人を応援するのは自分の使命と心得ている。良きことのために働いている人々をきっと神様も祝福してくださるに違いない。


2025年6月1日日曜日

「保険会社の品格」

  昨年末から想定外のことが立て続けに起きている。ここまで続くと、もはや「想定外の事が起こることは想定内」になってくる。「次なる想定外は何か」と心の準備をしていたら、保険関係の事だった。申請していた保険の認定が却下されたのである。この保険会社(仮にT社とする)とのやり取りを通して、保険会社の在り方について考えたことを述べる。

 事のあらましは、11月に起きた給湯管破損による水漏れの被害が2か月以上たってから次第に明らかになったことに存する。時間的ずれがあることにより、T社が事故と被害の間の因果関係を怪しむ原因となったのである。そのためT社は保険鑑定人と保険調査員を派遣して現場調査を行い、リフォーム工事請負会社の担当者同席のもと、実地に建物の構造を解説し、その構造ゆえに被害が2か月以上たって顕在化した経緯を説明した。また、私自身は調査員から極めて不愉快で人権侵害的な人物調査をされた。結果を知らせる電話が来たのはその20日後である。

 電話口で担当者の話す却下理由を聞いて、私は即座に反論した。事実を無視した空論だったからである。電話をしてきた担当の方はディスクワークの人であるから、現場のことは何も知らない。私が言葉を尽くして現状について話しても、おそらくは保険鑑定人、保険調査員の報告をおうむ返しに口にするだけなので、まるでリアリティが感じられなかった。「この人、自分でも言っている内容を理解しておらず、実は困っているんじゃないか」と思ったほどである。この方には気の毒だが、「私はこんなでたらめを許さない」と堅く心に決めた。

 申請却下の理由として挙げられた4つのうち、1つは全く愚にも付かぬ理由(ユニットバス下の防水効果がなくなり漏水した可能性)なので外すと、大きく2つに集約される。

<理由1> 今回の被害箇所は給湯管の破損個所からは距離的にかなりはなれており、給湯管から漏れた水による被害とは言えず、屋根の工法に問題があって雨漏りによるものと考えられる。

<理由2> 給湯管の破損により漏れた水はすぐ下の階を通ってさらに下の階まで達するほど大量だったのだから、当該階にはそれほど多くの水が残っていたはずがない。

 自宅に派遣されてきた鑑定人、調査員は、おそらく保険会社の提携会社の方々で、今から思えば、彼らの頭の中には来る前から既に上記の筋書きが描かれていたに違いない。アリバイ的に現場を見に来ただけで、真相を解明しようなどという気は端からなかったのである。

 しかし、上記の①②については普通の常識さえあれば論理的にたやすく間違いだと分かる。①については、屋根裏に間仕切りがあるわけではないのだから、水蒸気は届く限りどこまでも広がるに決まっているし、②については、床下はユニットバスから洗面所の洗濯機置き場およびトイレにかけてピット構造という一段下がった構造になっており、即ち床に凸凹があるなら凹の部分に水が溜まるのは理の当然である。子供でも「おかしい」と分かる、即ち子供も騙せない主張をT社がするのはなぜかと考えれば、そこに明確な悪意を感じないわけにはいかないのである。

 保険会社の回答を聞いて私が真っ先に思ったのは、このように「事実を捻じ曲げようとする悪辣な態度を決して許してはならない」ということだった。しかも、この件では調査員から犯罪者扱いされた記憶がまだ生々しく残っている。私が「却下の理由は事実とかけ離れており、受け入れられない」と告げると、「証拠となる写真など、新たな検討材料がなければ・・・」とのことだったので、「工事担当者に聞いてみます」と返答して、この話は継続事項になった。

 施工担当者に伺うと、工事中撮影した写真を持ってすぐ訪ねて来てくれた。その中に、以下の決定的状況を収めた証拠写真があった。それは①「ユニットバス床下溜水排水ポンプ作業写真」、②「洗濯機置き場・トイレ床下溜水証拠写真」、③「間仕切り壁解体写真」である。①②は、ユニットバスから洗濯機置き場およびトイレにかけて床下のピット構造部分に、水が満水状態であり、水中ポンプを使用して排水作業をしている写真であり、③は洗面所とトイレの間仕切り板を解体した時の写真で、木材にカビが生じ、腐っているのが分かる。これはT社が却下理由として挙げた<理由2>を決定的に打ち崩す証拠であり、また<理由1>の「事故発生場所から距離的に離れており、被害原因とは考えられない」という主張を崩すものである。

 実は私も重要な写真を撮影していた。それは天井が解体されて露わになったスラブ(天井裏見上げ)を撮ったものなのだが、それが重要な意味を持つのは、一晩中雨が降った翌朝に撮影されたものだからである。無論雨漏りはしていない。この日は昼間も1日中雨だったが、雨漏りがなかったことは工事作業者によっても確認されている。第一、雨漏りしているならリフォームを継続するはずがない。雨漏りを止めなければリフォームする意味がないからである。この天井の写真と工事作業者の証言は、T社が却下理由として挙げた<理由2>が完全に過ちであることを示している。

 続いて文書の作成に入り、これは担当の方が専門家の立場でT社の却下理由一つ一つに明晰な反駁文を書いてくださった。あとは前後に私の思いと考えを書いて提出した。スピードを重視したため十分なことが書けなかったが、最後の部分は以下の通りである。


 今回の保険申請に関して、私が一番許せないのは、始めから却下の結論ありきの鑑定で、事実が歪められていることです。玄関上部の被害を雨漏りであると根拠なく決めつけ、そのほかにも荒唐無稽な仮説を主張し、真相を捻じ曲げて「補償に該当しない」と言いくるめようとする態度を放置するわけにはいきません。あらゆる可能性を考慮し、事実を解明しようとする姿勢が全く見られないのは何故なのでしょう。被害の現れ方というものは一件一件それぞれ建物や事故状況の違いで変わってくるはずです。保険会社としてこれまでの膨大な被害状況の蓄積をもってしても、「まだ自分たちが知らない被害の生じ方があるかもしれない」として、それを解明しようとする真摯な姿勢がないことは、顧客として残念無念この上ないし、保険会社の立場に立てば、「日本を代表する保険会社としての矜持はいずこに」と、恥ずかしい限りで、会社の将来を憂えます。

 保険というものは思いがけない被害にあった人を助けるためにあるものではないのですか。もしその人の置かれた窮状を我が事として想像してみることができないのであれば、保険の社会的意義は著しく損なわれます。私の事例は確かに特殊に見えるかもしれませんが、それは上記縷々述べたように、建物の構造によって完全に説明でき、間違いなく給湯管破損からの水漏れ被害です。このような事例にどう対処するかはその保険会社の存在意義を決めることになるでしょう。

 もう一つ、私が耐え難く感じたのは、保険鑑定人、保険調査員による聴き取りで、自宅にお迎えしておこなっているにも関わらず、身分証の提示を求められたことです。なりすましを疑ってのこととしか考えられず、これに象徴される「保険金詐欺の容疑者扱い」はあってはならないことでした。また、経過の中で重要な役割を果たした除湿器の現認、第三者による写真の日付の確認要求などすべてが指し示すことは、人の話を頭から疑い、「無辜の顧客を犯罪者扱いした」ということです。私の人格が傷つけられ、侮辱を受けたと感じています。これは許してはいけないことでした。これに関してはずっと考え続けており、このままにしておくべきではないとも思っています。

 ところで、鑑定人、調査員のマナー違反(無許可の建物その他の撮影)については糺していただけましたでしょうか。特に写真は完全に削除していただくよう指示してください。よろしくお願致します。

 私が保険に関して考えたことを述べさせていただきました。いかなる根拠、例証、証拠写真を提出しても、貴社におかれましては頭から疑いのまなざしで見られるのかもしれません。しかし事実は強いもので、どのような悪意ある(あるいは単なる研究不足による)障害の中からでも必ず立ち顕われてくるものです。お電話をいただいた時はあまりに実情を無視した理不尽なご説明に呆然としましたが、お約束通り反論文と証拠の写真を提出致します。解体中の写真ですので、これ以上被害原因が分かる証拠はありません。写真の日付は裏面に記しました。データは、お送りしても信じていただけなければ意味がありませんので手元に置きます。人体が解剖によって死因の解明がなされるように、建物は解体によって被害原因が明らかになります。どうか曇りのない目でよくご検討くださるようお願い申し上げます。


 T社のあまりにもひどい事実の歪曲とごまかしに対する義憤から、私は保険会社に立ち向かう決心をしたのであるが、この問題を掘り下げていくうち保険会社の手の内が分かり、次第に面白くなってきた。火災保険がおりない理由を調べてみると、①故意、重大な過失、法令違反による損害、②損害の原因が3年以上前の災害によるもの、③免責金額に満たない損害、【補償対象ではない場合】として④経年劣化による損害、⑤地震、噴火、津波による損害、⑥施工不良による損害、⑦該当する自然災害の補償に入っていない、⑧機能に支障をきたさない被害、⑨火災保険加入前の被害、⑩一度の火災保険がおりた時に修理しなかった、等が挙げられていた。

 これによると、2~3か月前の事故原因による被害の申請などはかわいいものである。T社が目を付けた項目はどれかと考えると、おそらく④経年劣化による損害および⑥施工不良による損害あたりであろうか。だから、床板が割れない限り床下に流水しないフルユニットバスにもかかわらず、「ユニットバス下のメンテナンスを一度もしておらず、防水機能が取れて漏水した可能性もある」などと、意味不明の机上の空論を弄したり、「天井上部の屋根部分の施工に問題があり、雨漏りによって生じた被害である」などと、言い逃れようとしたのである。

 しかし無理やり引き出した理由であるから、建物の構造を知りさえすればすぐ誤りと分かる説明になってしまっている。そしてその建物の構造をこそ鑑定人と調査人は調査に来たはずだった。いったい何を見に来たのか。ここから分かるのは、鑑定人、調査人というのは保険金の支払いを抑制し、経費を削減するために派遣されているということである。それが保険会社の指示または暗黙の密約によるものなのか、鑑定人・調査員が保険会社の意図を忖度して自発的におこなっているのかは分からない。分かるのは、この人たちにとって事実や真相などはどうでもいいということだけである。

 保険会社が真剣に事故と被害の因果関係を調査する気があるなら、自社の中に調査・鑑定部門を作り、建物の構造模型を作るなどして実験すればよいのである。またT社との電話の中で、「2~3か月程度でそんなにカビがひどくなるのか」との疑念を聞いたが、これも実際に自社の研究部門で実験してみればよいのである。私は図らずもリフォーム工事に着手するまで1か月間カビを放置することになったが、小さなカビでも百倍くらいに広がって黒々とこんもりしたカビになった。そういう実地に即した研究部門を作らずに、事実に基づかない空疎な仮説を弄してどうしようというのか。人間が分業によって産業革命を起こしたのは事実だが、サービス業足る保険会社がその心臓部である「被害認定」を外注してどうするつもりか。保険会社にとって「被害認定」は1丁目1番地であって、事務部門や会計部門を外注してでも、その調査に特化した研究部門を整備して社内に残すべき部署だろう。それなのに、最優先課題が外注された先は、専門知識と経験を欠く鑑定人および中世異端審問官並みの猜疑心に満ちた調査員を擁する会社なのである。

 T社の不実な態度、特に人格蹂躙を平気で行う鑑定人、調査員の派遣により、私のT社に対する信頼は完全に地に落ちた。今回のことで得た教訓があるとすれば、このようにお粗末な会社の実態を知り、次回更新時の保険会社選びに役立てるくらいのものだろう。こういう会社は自ら墓穴を掘っており、いずれ滅ぶ。願わくは保険業界全体にこのような退廃がなからんことを。

 T社からの返答が楽しみである。いい加減な回答なら次の段階へ進むことになる。何しろ私は想定外を想定して行動する習慣が身についてしまったのだから。


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 心穏やかならず眠りについた翌朝の聖書の箇所は、たまたま詩篇4編であった。(5~6節、9節)

怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。/床の上で心に語り、そして鎮まれ。〔セラ

義のいけにえを献げ/主に信頼せよ。

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平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます。


「ああ神様、やはり「『あなたは座るのも立つのも知り/遠くから私の思いを理解される』(詩編139編2節)のですね。何もかも全てご存じなのですね」と思い知り、御名を崇めたことだった。