2024年10月4日金曜日

「空洞化する時間」

  タイパ(タイム・パフォーマンス)という言葉を聞くにつけ、映画やドラマその他の動画を倍速で視聴したり、出だしから一足飛びに移動して音楽のサビの部分を聴くような鑑賞方法について考えてしまいます。恐らくほとんどの人が部分的にこのような手法を使ったことがあるはずで、それを好む人々の気持ちが全く分からないわけではないのですが、ほぼ常にそうしているとなると話は別です。家庭にビデオデッキがない時代に生まれた人は、黙って流れる映画なりテレビなりを見るほかなく、画像的には動きのない間合いを含めてじっくり細部を味わうのが当たり前でした。現在は映画やドラマならものの数分、動画や歌のイントロならそれこそ数秒で視聴者の心を掴まないと、別のコンテンツに切り換えられてしまうリスクがあります。なにしろ鑑賞対象はいくらでもあり、リモコンや指の動きで対象を自在に操れる視聴者こそ絶対者なのですから、彼らに選ばれるためにはますますその需要に沿った作品作りがなされるでしょう。

 何のためにそこまでするかと言えば、世にあふれる膨大な作品を少しでもこなして人に先んじるため、そして或る非常に狭い領域での識者になるためです。「〇〇のことなら✗✗が詳しい」ということが流布することにより、その人は仲間内であるいは或る特定の集団の中で一定の場所を占めることができ、「何者か」になれる地位を手にするのです。目的達成の手段としてこれほどタイパの悪い方法はないように思えますが、他に比肩する者のない秀でた才能をもつ少数者以外はこのような方法を取るしかないのかも知れません。それさえ次々送り出されてくる作品の洪水に対して勝ち目のない戦いをするだけです。その場合、そこで費やされる時間の中身は果たしてコンテンツの「鑑賞」と呼べるのでしょうか。それは或る種からっぽの時間なのではないでしょうか。

 今からみると相当のんびりした時代に育った私でさえ、長い説明を聞く時は心の中で「早く結論を言え」と思ったり、話のまどろっこしい進行速度にイラっとすることがあるのですから、このタイパ重視の流れに取り込まれているのを認めざるを得ません。しかし、世の中は時間をかけて煮詰めていくしかない事柄や急かさずに見守るしかない事象で満ちています。人間の成長は行きつ戻りつしながらの、非常にゆっくりしたものだとつくづく実感する出来事がありました。四十年前の生徒が便りをくれたのをきっかけに、当時から現在までを埋める手がかりとなる話を、手紙という形で何度かやり取りしました。私は念のためemailのアドレスも添えて手紙を書いたのですが、メールで返信されることはなく、いつも手紙での返信でした。あの頃私が知らなかったことやその後の歩みの断片を教えてもらい、それまで長い間冷凍されていた疑問やわだかまりがゆっくり溶けていくようでした。知らないままで終わるはずだったことを知るのに四十年かかりました。それだけの時間が必要だったのです。思えばあの頃は生徒と格闘する毎日で、互いに分かり合えなくても相手を軽くかわそうとはせずに、真正面から付き合っていました。がちんこ勝負はめいめいの心にそれなりの痕跡を残さずには済まず、後悔ややるせなさが澱のように沈んでいきました。それらが空しい、無駄な時間ではなかったと分かるのに四十年を要しました。果たして今、人に対して無意識のうちにタイパを考慮して向き合ってはいないか、改めて自分自身に突き付けられていると感じます。