毎日の暮らしを思い浮かべると、人工知能が生活のあらゆる領域にわたって深く浸透しているのを感じます。生活インフラ、公共サービス、生産・製造・通信・流通・金融などの経済活動のどれをとっても、AIなしには一日も暮らせません。定型文書の作成や定型的な対応の繰り返しおよび機械的な応答はAIが得意とするところで通常は人間よりも正確なのですから、任せておけばよいわけで、それらは元来人間の仕事ではなかったとも言えます。一方、囲碁や将棋の世界における対局で一頃衝撃的に受け止められたような、「人間が人工知能に負けた」といった見解も、「マラソン選手がポルシェと競って負けた」と嘆くのと同じくらい的外れです。これまでの全試合のデータを読み込ませてあらゆる勝ちパターンを覚えさせたら、まず誰にも負けるはずがないからです。
ディープ・ラーニングによって自分で判断する力をもった生成AIの空恐ろしさは、やはり非生物学的意味でヒトのクローンを造れることではないでしょうか。或る人の乳幼児からの発した言葉、周囲から聞いた言葉や他者とのやりとり、遊びに行った場所での体験、自分の振る舞いや他者とのコミュニケーション、読んだり書いたりした絵本や文章、触れた書画や動画、聞いたり歌ったり演奏した音楽、その他ありとあらゆることを読み込ませれば、一定程度その人の脳科学的クローンができそうです。自分のクローンができたら、現在何かの判断で迷ったときどんな決定をするのか参考に知りたい気もしますが、そうすると自分自身はもう要らなくなる? 実際、美空ひばりのAI歌唱や手塚治虫のAI漫画など、亡くなった芸術家の作品データを取り込むことによって、その作者が存命であれば生み出したであろうような作品の制作を世に出す取り組みはこれからも行われることでしょう。無論、これらを冒涜と感じる人は常に相当数いて、この主張は将来にわたって絶えることはないでしょう。
芸術家のファンというものはどちらかというと自分の好みに合わないイメージ・チェンジを嫌うので、それまでの歩みを踏まえてAIによって制作された作品は、別の意味で一定の価値を生むかもしれません。ただそれは、あくまでその芸術家が生きていたところまでのデータが生み出したものにすぎず、その後にどのような体験をしてどのように感じ、どのような作品を生んだかは誰にも言えません。突如天啓に打たれて、全く作風の違うものを製作したり、あるいは全く沈黙することだってあり得るのですから。愛する者をよみがえらせたいという思いは分かりますが、それは自分のために幻影を創り出す可能性を十分意識したうえで為さなければならないでしょう。
ただ一つ「これならAIもいいかな」と私が思うのは、人の最期に立ち会うことに関してです。もし自分のAIができたら、私が頼みたいのは自分の看取りです。これからますます増える単身一人世帯の最終的願いはこれでしょう。「人手が足りない」という問題は人的資源を埋め合わせる以外、解決の仕様がありません。これはどれだけお金があっても解決できない事柄の一例です。現在、老齢人口の身元保証に関わる難題は零細的事業が少しあるばかりで、公的、根本的な解決に関してはその糸口さえ見えません。自分の全データを搭載したAIロボットが造れるなら、今まさに地方自治体や福祉関係者の善意のみによって支えられ、遂行されている途方もなく大変な業務のほとんどが解決されるでしょう。第二の自分(AI)を自らの身元保証人とすることができれば、年老いても元気なうちは身の回りの細々した用事を部分的にこなしてもらうことで相当長く在宅で過ごせるし、認知症になった場合は以前の自分の思考や意図を汲み取って対応してくれたら本当に有難い。そして、いよいよ最期の時には、その看取りとその後の一切を託せるならば、どれほど安心してその時を迎えられることか。もちろん、AI自身は自分の相棒の最期を見届けたのち、自動消滅するプログラムでなければなりません。