友人からの書籍情報で読んだ本の中に、高島俊男の『お言葉ですが…』があります。1995年から2006年まで週刊文春に掲載されたコラムをまとめたもので全11冊になります。普段テキトーな言葉遣いをしている私には、言葉についての子細な説明についていけない感もあり一部しか読んでいませんが、この本はおかしな日本語の用法、漢字の表記などについて、中国文学者の立場から容赦なく一刀両断しており、その小気味よさが人気の理由でもあったようです。
最後の巻に「予言」と「預言」の用法について、長々と詳しい分析があります。著者周辺の編集者が軒並み前者を「これから起こることを見通して語ること」、後者を「聖書の中で神からの言葉を預かった人が語ること」、と区別していたことに驚いて、「預言」という漢字二字には「言を預かる」といった読み方の用法はないと言います。即ち、「予」の正字は「豫」であり、これを略して「予」あるいは「預」と書いたりするが、これらは異体字で全て「あらかじめ」という意味なのです。最初期の聖書は清代の漢訳聖書(これは英語の欽定訳聖書、いわゆるKing James Versionからの翻訳)であるから、「豫言」「予言」「預言」の間に意味の差はない、ということになります。漢訳聖書は(当然のことながら)全て漢字で書かれており、漢訳聖書の日本語版の漢字は漢語の借用にすぎません。このことが物語るのは、西洋の事物はまず当時の「学問の言葉」である漢語によって日本に流入したという時代状況です。なお、その後中国ではprophetという語を「豫言者」ではなく「先知者」と訳し、現在に至るという事実にも触れています。
「なるほどなあ」と思いました。確かにprophetと英語で聞けば受験英語のレベルでは「予言者」が真っ先に頭に浮かびますし、実際初めて英語の聖書を読んだ時、「あれっ、預言者はprophetでいいのか」と、私も少し肩透かしを食った感がありました。ちなみに、「預り金」と言う言葉(漢字で書けば「預金」となる)は、室町時代の末期頃には既に存在し、「預り金」や「預り銀」といった言葉は江戸時代には盛んに用いられたといいます。明治政府がお金を集める必要から銀行制度を創設して「預金」という言葉を案出した時も、「預金」と書いて「あずかりきん」もしくは「あずけきん」と読んでいたとのことで、著者はこれが「よきん」と読まれるようになったのは日露戦争の頃ではないかと推察しています。これ以後「金を預ける」もしくは「金を預かる」という、名詞を目的語とした漢字二字の用法が現れたことが示唆されているようです。
また、読者からもたらされた情報として、大正時代初めにできた日本語訳聖書では「前もって」という意味で用いた言葉に「預」の字があてられている箇所が何か所もあることから、この頃の日本では「預」が「予」の異体字として無造作に使用されていた証拠とされています。
「予言」と「預言」の区別が次第に辞書や用語集に載るようになったのは戦後のようです。広辞苑では昭和三十(1955)年の第一版ですでに「予言」とは別に「預言」の項があり、それが1991年の第四版で明確化され「神の言葉を預かる」という意味での記載が見られるとのことです。その中間にあたる1971(昭和46)年版平凡社世界大百科事典には、「予言」のみが用いられ「預言」の文字はないが、翌1972年になると解説文はそのままで漢字だけが「預言」に変更されているとのこと。どうもこの辺りで何かが変わったらしいと推測できます。思い返せばこれはまさしく私の子供時代。もちろん私の頭の中にも「預言者」=「神からの言葉を預かる人」とインプットされました。
私にとって「予言」と「預言」を区別することが間違いかどうかという論点よりずっと興味深いのは、なぜこの区別が燎原の火のように日本に広まったかということです。
手元のオクスフォード現代英英辞典Oxford Advanced Learners Dictionary (Oxford University Press 2010電子版)でprophetの項を直訳すると、
①(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において)人々を教え、神からのメッセージを与えるために神から遣わされた人。原文 (in the Christian, Jewish, and Muslim religions) a person sent by God to teach the people and give them messages from God
②イスラム教を創出した預言者ムハンマド
③未来に起こることを知っていると主張する人
④新しい思想や理論を唱道する人
となっています。これを見ると、現代においてprophetはまず宗教上の特別な単語として用いられていることが分かります。特に①を日本語にした「神からのメッセージを与えるために神から遣わされた人」と「神からの言葉を預かる人」との間には紙一重の差異しかなく、この間の変換は容易に起きたことでしょう。
それより三十年前の英英辞書として手元にある1976年初版THE CONCISE OXFURD DICTIONARY 第6版の第十刷(1980)には、prophetの項に次のように書かれています。
①霊感を受けた神の意志の教示者、啓示者、通訳。旧約聖書中の書き手または書 ※1 この後に具体的な預言者名の説明がある(大預言者はイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、書の分量が短い小預言者はホセアからマラキ)。原文:Inspired teacher, revealer or interpreter of God's will; prophetical writer or writing in O.T. (major -s, Isaiah, Jeremiah, Ezekiel, Daniel; minor -s, :Hosea to Malachi, whose surviving writings are not lengthy) ※2 さらにthe Prophetと大文字で書いた場合は、第一にムハンマドMuhammadの意、第二にモルモン教創始者ジョセフ・スミスJoseph Smithの意と書かれています。
②何らかの主義の代弁者、主張者。出来事を予言する人。予想屋。
これを見ると、この時点ですでに、prophetは第一義的に旧約聖書の中でもっぱら用いられる語、そこからイスラム教、モルモン教等に派生していった宗教用語であったこと、またその他の、いわゆる「これから起こることを語る予言者」という意味についての扱いは、「或る思想の唱道者」や「予想屋」等と共に非常に簡素で大雑把に括られているだけであることが分かります。
二十世紀は聖書の文献学的研究が世界中で急速に進んだ時代でしたが、事情は日本でも同じです。原語であるヘブライ語やギリシャ語での研究ほか独語、英語の研究成果を大いに取り入れて、日本でも聖書学が目覚ましく発展した時代でした。死海文書の発見という大事件もあり、子供心にその熱量の高まりはなんとなく覚えています。
聖書学の進展に伴い、prophetという用語の特殊性も日本語の聖書の翻訳に徐々に浸透していったはずです。「預言者」という日本語が漢字の用法としては誤りでも、その特殊感を出す工夫が「預言者」という造語ではなかったでしょうか。いくらそんな漢字はないと言われても、日本人には新語作りの天性があります。「神の言葉を預かる人」とは、なんとぴったりくる言葉かと考えれば、或る意味、この語訳は正鵠を射ていたと言えるのではないでしょうか。
敗戦後の日本人は、大本営発表に代表される空しい言葉ではなく、真の神の言葉を欲しており、加えて「預金」を「金を預かる」と読むことに何ら痛痒を感じなくなっていたため、恐らくこれを援用して「預言」という言葉を生み出したのです。してみると、これはタイムリーな歴史の偶然の積み重ねによる幸運なハプニングと言ってよいかも知れません。確かにこの言葉は多くの日本人の心に抵抗なくすんなり収まったのでしょう。でなければ誰もが知るほど、このような区別が定着するはずがありません。