2024年10月31日木曜日

「つかの間の秋」

  近年ずっとそんなきがしているのですが 、今年もいつから秋になったのか皆目分かりません。急に肌寒くなる日があったかと思えば、10月過ぎても30℃を超える日があり、ちょっと動くと汗が噴き出す有り様でした。どうもこの夏、私は猛暑による

 PTSDを発症したようで、「夏」というワードを聞くと、苦痛を伴う不快な気持ちで息苦しくなります。熱中症の恐怖、暑すぎて動けない不安、運動できずに弱まっていく体力、膝関節症の悪化で歩けない焦燥感、家事ができないほどの倦怠感、終わりが見えない猛暑の長さ・・・こういう心理状態に追い込まれていくのでは、トラウマティックになるのも当然でしょう。

 9月はほぼ夏と断じてよく、10月は雨やどんよりした曇りの日が多かった印象です。それでもちょっとは涼しくなったので、部屋の片づけや園芸を少しずつできるようになったのがこの10月でした。夏の間にすっかり駄目になった多肉植物を整理し、新たに秋から冬にかけての花の苗を鉢に植え替えて楽しみたいという気力が湧いただけでも、1カ月前には想像できなかったほどの回復ぶりです。

 「さわやかな青空の懐かしい秋はどこへ・・・」と思っていたら、10月最後の日(あ、ハロウィンか)、ようやく秋晴れに恵まれました。私はたまたま帰省中で、朝のうちパアーッと青空に洗濯物を干した後、近くの農協の直売所に行きました。まだトマトやキュウリといった夏野菜もありましたが、通常の野菜とともに秋の味覚の里芋や果物類(梨、柿、キウイなど)をたっぷり買ってきました。リンゴはまだ早いようで、好みのものが見当たらず残念。帰り道ふと見ると、或るお宅の北側の垣一面、朝顔が満開でした。あれはどう見ても朝顔でした。植物も季節が分からなくなっているのでしょう。いずれにしても今日は里芋が手に入ったので、夕飯は迷いなく東北のソウルフードたる「芋煮」、いわゆる里芋の豚汁で決まりです。


2024年10月25日金曜日

EVをめぐるジレンマ ― フォルクスワーゲンとトヨタ ー

 10月初旬、「フォルクスワーゲンがドイツ国内の工場閉鎖を検討」というニュースが世界に衝撃を与えました。言うまでもなく自動車産業はドイツの基幹産業であり、これは国全体を揺るがす大問題です。日本で言うなら「トヨタ、国内工場閉鎖」に匹敵する出来事で、社会に及ぼす影響の度合いがわかろうというものです。ドイツの自動車メーカーとしては比較的北部のヴォルフスブルクに本社があり、私になじみ深いフランクフルトを拠点に考えた時には、ドイツ南部にある他の有名な自動車メーカーより親しみを感じているので、このニュースが現実化するとしたら本当に悲しいことです。工場閉鎖は、一言で言うなら「コスト削減のための対策」であり、ドイツ車がここまで追い込まれた直接の原因は、ここ2年ほどの中国メーカーによる極端な低価格攻勢にあると言ってよいでしょう。ただ、そこに至るまでの経過は一言で言えるものではありません。

 私は事の詳細を知りませんが、EV車をめぐる動向については一定の関心を持って眺めてきて、日本はこれまでかなり不当な扱いを受けてきたという印象を持っています。例えば、トヨタについて述べるなら、これまで積極的にEV車を量産しようと試みた様子が見えず、国外向けの車としては専らハイブリッド車(ガソリンで動くエンジンと電気で動くモーターを備えた車)の製造および輸出に特化してきました。その分野に強みを持っているからです。ハイブリッド車は欧州でもよく売れましたが、この車を欧州市場から締め出そうとしてEVへのシフトを推し進めたのがドイツだったと言って過たないでしょう。Co2の排ガス規制における偽装をきっかけに、欧州ではディーゼル車から一挙にEV車へと振り子が触れました。温室効果ガスの排出規制は2017年の京都会議以降、待ったなしの案件としてかなり厳しい心的圧迫を伴って浸透していき、私は非常によく覚えているのですが、ちょうど2年前の10月27日に欧州連合と欧州議会が「欧州内では2035年に、ガソリン車などの内燃機関で動く新車販売を禁止することで合意した」という報道がありました。よく覚えているのはかなりのショックを受けたからで、「本気かな」と疑心暗鬼にもなりました。ここには、脱炭素という大義名分を掲げて、長年技術的に優勢だった日本のハイブリッド車を欧州市場から駆逐する意図があったでしょう。日本の自動車産業の行く末を案じた人も多かったはずです。ところが、もちろんドイツ車も或る程度健闘したものの、欧州のEV市場で大きなシェアを獲得したのは、まずアメリカのTeslaであり、またここ数年で急速に広まった中国のBYDでした。この猛攻にドイツ車は非常に苦戦し、この土俵で戦う限りさらなるコスト削減を目指さねばならず、その結果が今回の工場閉鎖の方針につながったと言えます。

 現在、欧州市場では需要に対してEVの供給過多の状態が続いていると言います。理由は様々考えられますが、根本的な課題は電気の供給に関するものと言ってよいでしょう。電気自動車が環境に良いのはその通りですが、どのようにしてその電力を得るかが問題なのです。電力の供給方法やコストに関しては、各国がそれぞれ異なった状況にあり、それゆえ異なった課題を抱えています。自然エネルギーへの転換がどれくらい進んでいるか、原子力発電を採用するかどうか、化石燃料としては何を用いるか等々により、電力の生産能力は千差万別です。各国の国土の地勢や資源の特徴、歴史的経緯などを無視して、或る時点から一斉に「車の動力に電気以外は許さない」というのはそもそも無理があったのではないでしょうか。北欧の某国が水力発電で電気需要の90%以上を賄えるからと言って、これを国のサイズも国土の状況もまったく違う国に一律に当てはめるのは現実的ではありません。温暖化対策は言うまでもなく大事です。ただ、「待ったなし」と言われても、人々には日々の生活があり、それを急に変えることはできません。それは「角を矯めて牛を殺す」ことになります。影響を被る人にとっては、生活破壊を伴う電力至上主義は横暴以外の何物でもないのです。自然エネルギーは今のところやはり供給の不安定さを免れませんし、なおかつ脱原発、ウクライナ戦争以後のロシア産天然ガスの供給ストップとなれば、電気代は高騰します。「EV問題」とは詰まるところ「エネルギー問題」なのです。

 EVとは即ち電気自動車であり、乱暴に言えば電化製品です。電化製品というものは、少なくとも内燃機関車よりは性能を高めるためのマイナー・チェンジが容易です。世界中のEVメーカーがしのぎを削って開発、改良に邁進しているのですから、あっという間に性能は向上するでしょう。ということは、新車があっという間に低性能の中古車になるということです。高級イタリア車を短期間で乗り換えて、いつも最新の車に乗っている人もいますが、そんなことができるのは下取りに出しても高く売れるからです。EVではそんな乗り方はできなくなるのではないでしょうか。そういえば、イタリアのメーカーはどの程度EVを販売しているか、顕著な成果をあまり聞いたことがありません。

 トヨタ車はEV開発にあまり力を入れてこなかったように見えると前に述べましたが、本気でやるつもりなら、まずバッテリーをチャージする充電ステーションを国中に作ったことでしょう。政府も全力でそれを後押ししたはずです。日本における充電ステーションは3万か所程度と言われていますが、私が車の運転をしないせいか、近隣で充電ステーションを見たのは一か所だけです。東京でこうなのですから地方はなおさらでしょう。今は自動車業界も政府もその気がなかったと考えるほかありません。いや考えるまでもなく、現在でさえ夏場は電力不足がたびたび懸念される状況なのです。エネルギー資源に恵まれない、国土が狭く地震の多い国にとって、エネルギーの調達は全く容易ではありません。このうえ、車までEVになって電気を必要とするなら、電気の供給が到底足りないことは政府や自動車業界ならずとも一般庶民が一番肌で分かっています。特に昨今の電気代の高止まりは生活に大きな影響を与えており、この状況でEVの購入を選択肢に入れる人は多くないに違いありません。そういう現状であればこそ、トヨタは国内で売れにくいEV車製造には本腰を入れず、政府も「COP28で『化石賞』を受賞(2023年10月3日)」という不名誉にも甘んじてこれまでやってきたのです。国民経済を守るためなら背に腹は代えられません。世界から白眼視されても、「工場閉鎖で多くの従業員が路頭に迷うよりはまし」という判断をしたのなら、国民として誰がそれを責められるでしょうか。

 欧州自動車工業会によれば、2024年1月から7月までのEU域内の新車の販売数は653万台、そのうちEV車は81万台余りで、前年同時期に比べ全体では3.9%増えたものの、EVの販売台数は0.4%減とのことです。特にドイツでは昨年12月にEVを購入する際の補助金が打ち切られたこともあってか、およそ20%減少とのこと。EUは中国国内で過剰に生産された低価格のEV車が流入することを警戒して、7月からは中国産EVに対し暫定的な追加関税を発動しています。EU域内でEVの販売は減ったのに、自動車全体では3.9%増というのは何かと言えば、これはハイブリッド車の売れ行きが絶好調だったことによります。この部分は日本車の面目躍如たるところです。

 もう一つ根本的な問題があるのは、ドイツの経済全体を考えた時、ドイツだけでなく欧州各国に当てはまることとして、日本にはない厳しい条件が思い浮かびます。国債1400兆円超えの日本人からすると、ドイツでは国の収支が合っていてマイナスになっていない(借金がない)と聞けば、「スゴイな」の一言ですが、借金をゼロにしなければならないのは通貨がユーロだからです。日本が国債1400兆円でも平気で暮らせるのは、日本には通貨発行権があり、通貨発酵益を享受できるからですが、ドイツ連邦銀行やドイツ政府はEUの通貨ユーロを発行することはできません。通貨発行権のある国が国民のための支出を国債発行で賄ってもそれは借金ではありませんが、EU加盟国がユーロの発行元の欧州中央銀行からユーロを調達すれば、それは返済必須の借金です。日本が欧州連合の中にいたら、とっくに破綻していたことでしょう。これまでドイツは欧州域内のビジネスにおいて一人勝ちに近い成果をあげ、経済的に潤っていたため、この件が前景化しなかったのだと思いますが、今後を考えるとこれは不安材料です。この件を突き詰めるとEUの解消に行き着いてしまうので、ここに手をつけるとしたら大騒動に発展するのは間違いなく、軽々には口にできない案件です。

 もしも、トヨタが7、8年ほど前のEV隆盛の兆しの中で、「EV至上主義は早晩行き詰る。この方向に行ったら果てしない低価格競争に巻き込まれ、いいことは何もない。EV市場に参入するにしてもそれは今ではなく、勝機が見えた時だ」との深謀遠慮の末に、経営上の厳しい時期を「何を言われようとじっと我慢でやり過ごし、雌伏して(つまり開発・研究に専心して)時機を待つ」、という腹の括り方をしていたのだとしたら、それはすごいことだと思います。買い被りすぎでしょうか。しかし、これほど長く自動車業界のトップにい続けられること自体信じがたいことですから、やはり何かあると思わねばならないでしょう。

 ここで思い出すのは・・・そう、「忠臣蔵」の世界です。大石内蔵助(大石良雄)が日本人に人気なのは、討ち入りを成功させ主君の仇を討ったためではありません。彼の人物像において絶対欠かせない側面は、「昼行燈」と呼ばれた「うつけ者」を演じられる度量です。別に人を欺くためではなく、そうして時間をつぶしながら、じっと好機を待つという在り方です。その時が到来したら、やる時はきっちり目的を達成する・・・こういうマインドが日本人は大好きで、私にはそのような振る舞いができる人物をひとつの理想像と考えているように思えるほどです。

 EVの生産に消極的と思われていたトヨタは、コロナ禍真っ只中の2021年12月に行われたEV戦略会見で、「2030年のEV販売台数の目標を350万台とする」という発表をしています。現状を考えると大言壮語に聞こえますが、トヨタが何の勝算もなくこのような発言をするはずはなく、深い戦略がきっとあるのでしょう。日本国内でのEV車の普及には、まず何といっても全固体電池といった国産の高性能バッテリーや充電ステーションの設置が必要でしょう。比較的安価で使い勝手の良い軽自動車または超小型車なら、サブカーとしてほぼ近隣だけの用途で使う人は多そうな気がします。国外に目を向ければ、インド政府が本格的にEV車の普及に舵を切ったようですから、今後巨大市場として熾烈なシェア争いが繰り広げられるのは必至でしょう。日本産のEV車はどのように展開していくのか注視したいと思います。いずれにしてもエネルギー調達の方法は未来においても一つではあり得ないことを考えれば、少なくともトヨタは今後EVの製造を重視しつつも、やはり全方位戦略を維持するのではないかという気がします。


2024年10月18日金曜日

「予言と預言」

  友人からの書籍情報で読んだ本の中に、高島俊男の『お言葉ですが…』があります。1995年から2006年まで週刊文春に掲載されたコラムをまとめたもので全11冊になります。普段テキトーな言葉遣いをしている私には、言葉についての子細な説明についていけない感もあり一部しか読んでいませんが、この本はおかしな日本語の用法、漢字の表記などについて、中国文学者の立場から容赦なく一刀両断しており、その小気味よさが人気の理由でもあったようです。 

 最後の巻に「予言」と「預言」の用法について、長々と詳しい分析があります。著者周辺の編集者が軒並み前者を「これから起こることを見通して語ること」、後者を「聖書の中で神からの言葉を預かった人が語ること」、と区別していたことに驚いて、「預言」という漢字二字には「言を預かる」といった読み方の用法はないと言います。即ち、「予」の正字は「豫」であり、これを略して「予」あるいは「預」と書いたりするが、これらは異体字で全て「あらかじめ」という意味なのです。最初期の聖書は清代の漢訳聖書(これは英語の欽定訳聖書、いわゆるKing James Versionからの翻訳)であるから、「豫言」「予言」「預言」の間に意味の差はない、ということになります。漢訳聖書は(当然のことながら)全て漢字で書かれており、漢訳聖書の日本語版の漢字は漢語の借用にすぎません。このことが物語るのは、西洋の事物はまず当時の「学問の言葉」である漢語によって日本に流入したという時代状況です。なお、その後中国ではprophetという語を「豫言者」ではなく「先知者」と訳し、現在に至るという事実にも触れています。

 「なるほどなあ」と思いました。確かにprophetと英語で聞けば受験英語のレベルでは「予言者」が真っ先に頭に浮かびますし、実際初めて英語の聖書を読んだ時、「あれっ、預言者はprophetでいいのか」と、私も少し肩透かしを食った感がありました。ちなみに、「預り金」と言う言葉(漢字で書けば「預金」となる)は、室町時代の末期頃には既に存在し、「預り金」や「預り銀」といった言葉は江戸時代には盛んに用いられたといいます。明治政府がお金を集める必要から銀行制度を創設して「預金」という言葉を案出した時も、「預金」と書いて「あずかりきん」もしくは「あずけきん」と読んでいたとのことで、著者はこれが「よきん」と読まれるようになったのは日露戦争の頃ではないかと推察しています。これ以後「金を預ける」もしくは「金を預かる」という、名詞を目的語とした漢字二字の用法が現れたことが示唆されているようです。

 また、読者からもたらされた情報として、大正時代初めにできた日本語訳聖書では「前もって」という意味で用いた言葉に「預」の字があてられている箇所が何か所もあることから、この頃の日本では「預」が「予」の異体字として無造作に使用されていた証拠とされています。

 「予言」と「預言」の区別が次第に辞書や用語集に載るようになったのは戦後のようです。広辞苑では昭和三十(1955)年の第一版ですでに「予言」とは別に「預言」の項があり、それが1991年の第四版で明確化され「神の言葉を預かる」という意味での記載が見られるとのことです。その中間にあたる1971(昭和46)年版平凡社世界大百科事典には、「予言」のみが用いられ「預言」の文字はないが、翌1972年になると解説文はそのままで漢字だけが「預言」に変更されているとのこと。どうもこの辺りで何かが変わったらしいと推測できます。思い返せばこれはまさしく私の子供時代。もちろん私の頭の中にも「預言者」=「神からの言葉を預かる人」とインプットされました。

 私にとって「予言」と「預言」を区別することが間違いかどうかという論点よりずっと興味深いのは、なぜこの区別が燎原の火のように日本に広まったかということです。

 手元のオクスフォード現代英英辞典Oxford Advanced Learners Dictionary (Oxford University Press 2010電子版)でprophetの項を直訳すると、

①(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において)人々を教え、神からのメッセージを与えるために神から遣わされた人。原文 (in the Christian, Jewish, and Muslim religions) a person sent by God to teach the people and give them messages from God

②イスラム教を創出した預言者ムハンマド

③未来に起こることを知っていると主張する人

④新しい思想や理論を唱道する人

となっています。これを見ると、現代においてprophetはまず宗教上の特別な単語として用いられていることが分かります。特に①を日本語にした「神からのメッセージを与えるために神から遣わされた人」と「神からの言葉を預かる人」との間には紙一重の差異しかなく、この間の変換は容易に起きたことでしょう。

 それより三十年前の英英辞書として手元にある1976年初版THE CONCISE OXFURD DICTIONARY 第6版の第十刷(1980)には、prophetの項に次のように書かれています。

①霊感を受けた神の意志の教示者、啓示者、通訳。旧約聖書中の書き手または書 ※1 この後に具体的な預言者名の説明がある(大預言者はイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、書の分量が短い小預言者はホセアからマラキ)。原文:Inspired teacher, revealer or interpreter of God's will; prophetical writer or writing in O.T. (major -s, Isaiah, Jeremiah,  Ezekiel, Daniel; minor -s, :Hosea to Malachi, whose surviving  writings are not lengthy)  ※2 さらにthe Prophetと大文字で書いた場合は、第一にムハンマドMuhammadの意、第二にモルモン教創始者ジョセフ・スミスJoseph Smithの意と書かれています。

②何らかの主義の代弁者、主張者。出来事を予言する人。予想屋。

 これを見ると、この時点ですでに、prophetは第一義的に旧約聖書の中でもっぱら用いられる語、そこからイスラム教、モルモン教等に派生していった宗教用語であったこと、またその他の、いわゆる「これから起こることを語る予言者」という意味についての扱いは、「或る思想の唱道者」や「予想屋」等と共に非常に簡素で大雑把に括られているだけであることが分かります。

 二十世紀は聖書の文献学的研究が世界中で急速に進んだ時代でしたが、事情は日本でも同じです。原語であるヘブライ語やギリシャ語での研究ほか独語、英語の研究成果を大いに取り入れて、日本でも聖書学が目覚ましく発展した時代でした。死海文書の発見という大事件もあり、子供心にその熱量の高まりはなんとなく覚えています。

 聖書学の進展に伴い、prophetという用語の特殊性も日本語の聖書の翻訳に徐々に浸透していったはずです。「預言者」という日本語が漢字の用法としては誤りでも、その特殊感を出す工夫が「預言者」という造語ではなかったでしょうか。いくらそんな漢字はないと言われても、日本人には新語作りの天性があります。「神の言葉を預かる人」とは、なんとぴったりくる言葉かと考えれば、或る意味、この語訳は正鵠を射ていたと言えるのではないでしょうか。

 敗戦後の日本人は、大本営発表に代表される空しい言葉ではなく、真の神の言葉を欲しており、加えて「預金」を「金を預かる」と読むことに何ら痛痒を感じなくなっていたため、恐らくこれを援用して「預言」という言葉を生み出したのです。してみると、これはタイムリーな歴史の偶然の積み重ねによる幸運なハプニングと言ってよいかも知れません。確かにこの言葉は多くの日本人の心に抵抗なくすんなり収まったのでしょう。でなければ誰もが知るほど、このような区別が定着するはずがありません。


2024年10月11日金曜日

「AIの未来に望むこと」

  毎日の暮らしを思い浮かべると、人工知能が生活のあらゆる領域にわたって深く浸透しているのを感じます。生活インフラ、公共サービス、生産・製造・通信・流通・金融などの経済活動のどれをとっても、AIなしには一日も暮らせません。定型文書の作成や定型的な対応の繰り返しおよび機械的な応答はAIが得意とするところで通常は人間よりも正確なのですから、任せておけばよいわけで、それらは元来人間の仕事ではなかったとも言えます。一方、囲碁や将棋の世界における対局で一頃衝撃的に受け止められたような、「人間が人工知能に負けた」といった見解も、「マラソン選手がポルシェと競って負けた」と嘆くのと同じくらい的外れです。これまでの全試合のデータを読み込ませてあらゆる勝ちパターンを覚えさせたら、まず誰にも負けるはずがないからです。

 ディープ・ラーニングによって自分で判断する力をもった生成AIの空恐ろしさは、やはり非生物学的意味でヒトのクローンを造れることではないでしょうか。或る人の乳幼児からの発した言葉、周囲から聞いた言葉や他者とのやりとり、遊びに行った場所での体験、自分の振る舞いや他者とのコミュニケーション、読んだり書いたりした絵本や文章、触れた書画や動画、聞いたり歌ったり演奏した音楽、その他ありとあらゆることを読み込ませれば、一定程度その人の脳科学的クローンができそうです。自分のクローンができたら、現在何かの判断で迷ったときどんな決定をするのか参考に知りたい気もしますが、そうすると自分自身はもう要らなくなる? 実際、美空ひばりのAI歌唱や手塚治虫のAI漫画など、亡くなった芸術家の作品データを取り込むことによって、その作者が存命であれば生み出したであろうような作品の制作を世に出す取り組みはこれからも行われることでしょう。無論、これらを冒涜と感じる人は常に相当数いて、この主張は将来にわたって絶えることはないでしょう。

 芸術家のファンというものはどちらかというと自分の好みに合わないイメージ・チェンジを嫌うので、それまでの歩みを踏まえてAIによって制作された作品は、別の意味で一定の価値を生むかもしれません。ただそれは、あくまでその芸術家が生きていたところまでのデータが生み出したものにすぎず、その後にどのような体験をしてどのように感じ、どのような作品を生んだかは誰にも言えません。突如天啓に打たれて、全く作風の違うものを製作したり、あるいは全く沈黙することだってあり得るのですから。愛する者をよみがえらせたいという思いは分かりますが、それは自分のために幻影を創り出す可能性を十分意識したうえで為さなければならないでしょう。

 ただ一つ「これならAIもいいかな」と私が思うのは、人の最期に立ち会うことに関してです。もし自分のAIができたら、私が頼みたいのは自分の看取りです。これからますます増える単身一人世帯の最終的願いはこれでしょう。「人手が足りない」という問題は人的資源を埋め合わせる以外、解決の仕様がありません。これはどれだけお金があっても解決できない事柄の一例です。現在、老齢人口の身元保証に関わる難題は零細的事業が少しあるばかりで、公的、根本的な解決に関してはその糸口さえ見えません。自分の全データを搭載したAIロボットが造れるなら、今まさに地方自治体や福祉関係者の善意のみによって支えられ、遂行されている途方もなく大変な業務のほとんどが解決されるでしょう。第二の自分(AI)を自らの身元保証人とすることができれば、年老いても元気なうちは身の回りの細々した用事を部分的にこなしてもらうことで相当長く在宅で過ごせるし、認知症になった場合は以前の自分の思考や意図を汲み取って対応してくれたら本当に有難い。そして、いよいよ最期の時には、その看取りとその後の一切を託せるならば、どれほど安心してその時を迎えられることか。もちろん、AI自身は自分の相棒の最期を見届けたのち、自動消滅するプログラムでなければなりません。


2024年10月4日金曜日

「空洞化する時間」

  タイパ(タイム・パフォーマンス)という言葉を聞くにつけ、映画やドラマその他の動画を倍速で視聴したり、出だしから一足飛びに移動して音楽のサビの部分を聴くような鑑賞方法について考えてしまいます。恐らくほとんどの人が部分的にこのような手法を使ったことがあるはずで、それを好む人々の気持ちが全く分からないわけではないのですが、ほぼ常にそうしているとなると話は別です。家庭にビデオデッキがない時代に生まれた人は、黙って流れる映画なりテレビなりを見るほかなく、画像的には動きのない間合いを含めてじっくり細部を味わうのが当たり前でした。現在は映画やドラマならものの数分、動画や歌のイントロならそれこそ数秒で視聴者の心を掴まないと、別のコンテンツに切り換えられてしまうリスクがあります。なにしろ鑑賞対象はいくらでもあり、リモコンや指の動きで対象を自在に操れる視聴者こそ絶対者なのですから、彼らに選ばれるためにはますますその需要に沿った作品作りがなされるでしょう。

 何のためにそこまでするかと言えば、世にあふれる膨大な作品を少しでもこなして人に先んじるため、そして或る非常に狭い領域での識者になるためです。「〇〇のことなら✗✗が詳しい」ということが流布することにより、その人は仲間内であるいは或る特定の集団の中で一定の場所を占めることができ、「何者か」になれる地位を手にするのです。目的達成の手段としてこれほどタイパの悪い方法はないように思えますが、他に比肩する者のない秀でた才能をもつ少数者以外はこのような方法を取るしかないのかも知れません。それさえ次々送り出されてくる作品の洪水に対して勝ち目のない戦いをするだけです。その場合、そこで費やされる時間の中身は果たしてコンテンツの「鑑賞」と呼べるのでしょうか。それは或る種からっぽの時間なのではないでしょうか。

 今からみると相当のんびりした時代に育った私でさえ、長い説明を聞く時は心の中で「早く結論を言え」と思ったり、話のまどろっこしい進行速度にイラっとすることがあるのですから、このタイパ重視の流れに取り込まれているのを認めざるを得ません。しかし、世の中は時間をかけて煮詰めていくしかない事柄や急かさずに見守るしかない事象で満ちています。人間の成長は行きつ戻りつしながらの、非常にゆっくりしたものだとつくづく実感する出来事がありました。四十年前の生徒が便りをくれたのをきっかけに、当時から現在までを埋める手がかりとなる話を、手紙という形で何度かやり取りしました。私は念のためemailのアドレスも添えて手紙を書いたのですが、メールで返信されることはなく、いつも手紙での返信でした。あの頃私が知らなかったことやその後の歩みの断片を教えてもらい、それまで長い間冷凍されていた疑問やわだかまりがゆっくり溶けていくようでした。知らないままで終わるはずだったことを知るのに四十年かかりました。それだけの時間が必要だったのです。思えばあの頃は生徒と格闘する毎日で、互いに分かり合えなくても相手を軽くかわそうとはせずに、真正面から付き合っていました。がちんこ勝負はめいめいの心にそれなりの痕跡を残さずには済まず、後悔ややるせなさが澱のように沈んでいきました。それらが空しい、無駄な時間ではなかったと分かるのに四十年を要しました。果たして今、人に対して無意識のうちにタイパを考慮して向き合ってはいないか、改めて自分自身に突き付けられていると感じます。