若い人の就職について考える機会がありました。現在の若い人々の就労の在り方は一昔前からは想像できないほどの変化を遂げているようです。初職を得た職場にずっと勤めるつもりの人は多いとは言えず、転職は当たり前の事らしい。特にここ数年は若手労働者の取り合いになっているようで、「数年前まで大企業の採用は新卒9に対して中途(いわゆる第二新卒)1だったのに、今はほぼ5対5になっている」とラジオでは告げていました。
大抵の人にとって「自分がしたい仕事」、「自分に合った仕事」というものはもちろんあるでしょう。他面、それを選択してうまくいくかどうかは、或る意味、誰にも分らない永遠の謎と言えるのではないでしょうか。一般的に仕事の選択にあたっては、「やりがいや使命感」を軸に、賃金や労働環境、ワークライフバランス、将来の見通しなどの視点を勘案して決定するのでしょうが、今の若い人はこれに加えてさらに、社会に出る前から将来にわたる自律的キャリア形成のヴィジョンを求められます。かつて芸術系の世界で自己実現を望んだ若者が自発的におこなった選択とは違い、これは社会の要請によるものであり、学校のキャリアセンター、就職情報企業の就活セミナー、若者を採用する企業の就職説明会をはじめ全メディアを挙げて喧伝されているのです。このターゲットはかつて高等教育に進まず夢を追った若者層ではなく、高等教育を受けて正社員を目指す若年労働者のボリューム層です。この層に向けて集中的に同じ方向づけがなされるのですから疑問を持つ人はまれで、皆乗り遅れまいと何だか分からぬ巨大な潮流に飲み込まれてしまうのは如何ともしがたい。或る年代以上の人には経験のないこの事態、すなわち、将来のキャリア形成を見据えて目の前の仕事を主体的に意味づけし、社会状況の変化に常に対応できるよう持続的に学ぶこと、そして下した決定がもたらす現況は全て自己責任として本人に帰せられるという過酷な風潮が、今の若者に課せられているのです。
同世代の過半数が高等教育を受けるようになり、またキャリア教育が徹底されるようになった現在、社会の中で自分の場所を見つけようとする時、若者が苦悩するのは理の当然です。現状を分析し、そこに最適化できるようにスキルや経験を積み上げようとする人は今いる地点に満足せず、転職してさらに上を目指すでしょう。自律的キャリアを生きるべく教育されたため、自分のしたいこと(本人にとってはそれができなければ生きる意味がないと思えるようなこと)がそれなりに確固としてあるので、それがかなわぬ状態では不満がくすぶり続けます。「どこまでも自分は自分でいたい」という自己実現の願望はキャリア教育によって格段に強固なものにされたと言ってよいでしょう。才能や運に恵まれうまくキャリア形成ができる人がいる一方、逆に「ここじゃない」と転職をくり返して心身をすり減らしたり、職場で不遇感を募らせる人も多いでしょう。よりよいキャリア形成のために「こうすればほぼ必ずうまくいく」といったことはあり得ず、どのような結果が出てもそれは自己責任として受け入れなければならない社会になりました。
職業を決める時の一番の動機は、まず誰にとっても「やりがい」であることは確かで、自分の仕事が社会でどのように役に立つ仕事であるかを考えない人はいないはずです。しかし、新卒一括採用が基本となっている現状では、これまで進学時における入学試験で経験してきたのと同様に、同世代の中での偏差値という視点を捨てきれず、みんなが目指す企業を選択肢に入れ、取り敢えずそこにおさまってしまう場合が非常に多いように見受けられます。既存の大企業が今後どれだけ発展できるのか私には分からないものの、これまでのやり方では駄目だろうという予感だけは強くあります。だから、仕事への関心や覚悟、向き不向きや才能を度外視して従来の思考枠の延長で就職した場合、自分が望んだキャリア形成に成功する可能性は低いと言わざるを得ません。勉学で成果を上げられるマインド及び能力は、仕事で成果を上げるためのそれとは全く別物だからです。ここに至って「何をして生きていくか」という仕事における自己実現は本当に大きな課題となって若者の日常を覆うことになります。
『夜と霧』で知られるV.E.フランクルは強烈な体験をもとに、精神医学会でロゴセラピーという研究分野を創出しました。『夜と霧』のドイツ語原文タイトルは“Ein Psycholog erlebt das Konzentrationslager”(『或る心理学者の強制収容所体験』)ですが、その後に出版された講演集のほぼ同名のタイトルに付された前置き、“…trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager”(『それでも人生にイエスと言う』に注目するだけでも、これはもう途轍もない内容の本だと分かります。自殺を企図するものが続出するという極限状況において、それでも生きる意味を問うということは、穏やかなご利益宗教が横溢する環境にある者にには理解をはるかに超えた到達点です。真正のユダヤの知性がその特殊な人生を自分への問いとして捉え、究極の思考の末に辿り着いた境地なのだろうと想像するしかないのです。
ロゴセラピーの日本での提唱者、勝目茅生さんは『ロゴセラピーと物語』の中で、「いわゆる自己実現は普遍的な意味を実現させたとき、その見返りとして初めて出てくるものなので、これを行動の目標にすることはできない」と述べています。そしてフランクルの譬え「自己実現のブーメラン」を引いて、「そのような(自己実現を目標にする)人たちは、ブーメランのようなものだ。ブーメランがいつでも投げたハンターのところに戻ってくるというのは間違っている。ブーメランは目標に達しなかった時だけ、つまり獲物に当たらなかった時にだけ、自分のところに戻ってくるのだ(フランクル『ロゴセラピーと実存分析』)」と書いています。何と卓抜した比喩でしょうか。ここで言う「普遍的な意味」とは万人に共通するという意味での普遍性ではありません。刻々と人生から送られてくる問いかけを各人が耳を澄まして聴き取り、それに対して全力で応えていくという意味なのです。人生からの問いに答えようと専心した時にのみ自己実現ができるのであって、目標を間違えて自分だけに目を向けてしまうと、まさにそのことによって自己実現に失敗すると述べているのです。
護送船団方式的メンタリティで長年やってきた世代では、或る程度流れに乗っていれば惰性で過ごしていてもなんとかなりました。自己実現などと言う大仰なことを考えなくて済んだのです。終身雇用が当たり前だった時代には、考慮すべき問題はほぼ職場の中に限定されており、人生の大転換を伴うようなキャリア形成や将来の展望など考えずに過ごした人が過半でしょう。それに比して、少なくとも戦後の日本においては今ほど個人の決断がその人の将来の在り方に直結する時代はなく、その点で今の若者は大変です。
しかし、そのことは決して悪いことではないと、最近思うようになりました。それは年を重ねると、もうさほど長くない残りの人生について決断ばかりが増えるからです。次々と生起する問題に適切な判断を下すことは、生活の満足度や積もり積もって臨終における後悔しない生き方につながるので、真剣にならざるを得ません。それは絶えざる学びとたゆまぬ努力を必要とするものです。もし各人が若い時から一つ一つの選択について真剣勝負で学んで判断していくなら、そしてその経験の積み重ねによって人生を形成するなら、その人は自分についてのエキスパートになるはずで、そうである以上どのような人生になってもそれを受け入れる地平に達するに違いないと思うのです。今の人に一つメリットがあるとしたら、それは少子化です。とにかく労働人口が極端に不足するのは間違いないのですから、考えようによっては「自分のしたい仕事」ができる可能性は広がっているわけです。若い方々の健闘を祈ります。