2024年2月28日水曜日

「聖書のたとえ話をめぐって」

 先日友人に「ぶどう園の労働者の譬え」を説明しようとして、全く言いたいことがうまく伝えられないという経験をしました。自分では何となく理解できているつもりでしたが、言葉を尽くせば尽くすほど全然駄目でした。そして思ったのです。そもそもイエス様のたとえ話を解説してはいけなかった、と。それができるくらいならイエス様ご自身がなさっていたはずだから。

 迷子の羊、岩の上の家、良きサマリヤ人、放蕩息子、種蒔きの譬えと、いくらでも出てくるたとえ話を考える時、「イエス様はなぜ譬え話を用いて語ったのか」という問いに突き当たります。これについてははっきりした答えが各福音書に出ています。聖書協会共同訳で見てみます。4つ全ての福音書において、たとえを用いて話すのは「一般の群衆に対して」であることが前提になっています。

マルコによる福音書(4章2節および34節)は簡潔に事実を記しています。

イエスはたとえを用いて多くのことを教えられ、その中で次のように言われた。

たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


マタイによる福音書(13章10~17節)は、弟子たちと群衆とを分けて考え、イザヤの預言を引きながら、その理由を述べています。

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘義を知ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、悟りもしないからである。こうして、イザヤの告げた預言が彼らの上に実現するのである。

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り/耳は遠くなり/目は閉じている。/目で見ず、耳で聞かず/心で悟らず、立ち帰って/私に癒やされることのないためである。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。よく言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


ルカによる福音書(8章4節および9~10節)はマタイに近いですが、異邦人向けに簡潔に書かれています。

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が御もとに来たので、イエスはたとえを用いて語られた。 

弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ためである。」


ヨハネによる福音書(16章25~33節)は私の手に余る福音書ですが、全編にわたって、人の罪を赦すために独り子を十字架の死と復活に遣わされた神の愛が常に意識されているのは間違いありません。弟子たちに向かって渾身の願いを込めて、来たるべき日に信じる者となるようにとお語りになっているように思います。

「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない。父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたがすべてのことをご存じで、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。」イエスはお答えになった。「今、信じると言うのか。見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」


 こうしてみると、「天の国の秘義」とか「神の国の秘義」とか言っているのは何か特別不可思議なことを意味するのではなく、単に「イエスを神の御子と信じるか」どうかを指しているように思われます。しかし一方でこれほど難しいことはないとも言えます。信じるかどうかは個人の意思で決められることではないからです。ここで思い出すのは、ヨハネによる福音書9章でイエスが「生まれつきの盲人を癒す」箇所です。当時盲人は本人または親が罪を犯した結果と考えられていたため、目が見えるようにされた人が「こんなことは神のもとから来た人でなければできないはずだ」と言うと、ファリサイ派の人々は「お前は罪の中に生まれていながら我々に教えようと言うのか」と彼を追い出す場面です。その後の展開は9章35~41節に述べられています( ※「人の子」というのはここでは「神の御子」という意味です)。

イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった。彼と出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひれ伏すと、イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」


 この「信じたい」から「信じます」までの距離は、この人の場合一直線につながっていますが、実はここに千里の径庭があります。この人が即座に「信じます」と告白できたのは、実際に主イエスに出会ったからです。この体験がなければ信じることができない、「信じたい」のに「信じられない」人がどれほどいることか。

 ここで私の念頭に思い浮かばずに済まないのは、『罪と罰』第四篇におけるラスコーリニコフとソーニャの会話です。なぜかしきりに「ラザロの復活」の箇所を読んでくれとせがむラスコーリニコフに対して、ソーニャはなかなか読もうとしない。信仰深いソーニャの言葉を聞きながら、「信仰心が伝線したら大変だ」とばかりに神を拒みつつも、なぜだか彼は「さあ、読んでくれ!」と彼女に迫る。すると彼女は、「なんのために読むんです? だってあなたは神様を信じていらっしゃらないんでしょう?」と返すのです。信じない者に対しては何を話しても無意味だとソーニャは知っているのです。これほど哀切に満ちた場面は他にちょっと思い当たりません。半ば絶望しているソーニャの心情を思うと、「信じる」ことをめぐって、その困難と断絶、切なさややりきれなさをこれほど見事に描いた描写はないと感じ、私自身痛切に悲しくなります。こういう場合できることはただ祈ることだけです。「あなたの全ての罪を赦すために死なれた方を信じることができますように。神様が信じる心を与えてくださいますように」と。聖書は信じて読まなければ分からない書物です。信じて読む気のない人には意味のない書物です。信じて読めるかどうか、それを分ける分水嶺がたとえ話なのかも知れません。


2024年2月22日木曜日

「低収益地域の切り捨て」

  先日の帰省でビックリ仰天の事実をしりました。帰省前に東京で注文していたネットスーパーの宅配が3月で終了するというのです。「えーっ」とのけぞってしばらく動けませんでした。帰省中の食糧確保の命綱として、ようやく良い方法が見つかったと喜んでいたのに…・。その後、ネットで調べてみると、駅前西口にあるイトーヨーカドー自体が5月に閉店すると知り、言葉もありませんでした。しかも福島店だけでなく郡山店も閉店とのことでした。

 セブン&アイ・ホールディングスの事業において、スーパーマーケットはコンビニに比べて収益の薄い事業とは聞いていましたが、スーパーというより専門店も入ったモールと言ってよいこの店舗が閉店とはあんまりです。いつも多くの人で賑わっており、決して不採算店舗ではないはず、何より地元では唯一のモールです。地元民はみんな困っているようです。都会にはどこにでもあるモールですが、このようなちょっと遊び感覚で家族で行ける場所というのは、とくに地方では必要なものだと感じます。がっかりです。

 そう言えば少し前に、セブン&アイ・ホールディングス傘下の池袋西武が米投資ファンドに売却されるという話の時、百貨店としては61年ぶりの従業員のストライキがあったことを思い出しました。この場合はむしろ、百貨店事業を整理して手放す決定がまずあり、その前に収益の高い店舗をできるだけ高く売ろうとしたと言われています。ストライキのせいかどうか取り敢えず従業員の雇用は確保されたようですが、それもいつまで続くのでしょう。福島のイトーヨーカドーの場合も従業員はじめ関係者は相当数に上るはずですが、跡地の利用法が決まっていないところから見ても、その方々の雇用が確保されるとは到底思えません。

 大規模小売店に限らず、さらに公益性が高いと考えられているJRその他の鉄道会社も、特にコロナ以降、過疎地域の路線の廃線を見据えて急速な減便が進んでいます。過疎地域だけでなく、北陸新幹線の金沢・敦賀間延伸によって、地元民にはかえって不便になった交通環境の話もよく聞きます。九州新幹線でも同様のようです。分かっていたはずですが、大資本には「収益」「儲け」という視点しかなく、中央に集中しているマネーを引き出すためなら、これまで小さな共同体において担ってきた「責任」などという文字は経営マニュアルには存在しないのでしょう。

 そんなことより私は本当に困っています。とりあえず3月の帰省までは大丈夫そうですが、それから後は兄に車を出してもらうか、他の宅配サービスを探すしかないでしょう。でもいつも一週間分くらい注文していたので、これが大変な量なのです。気候の良い時ならなんとかなりそうですが、酷暑の夏、大雪の冬など本当に助かっていたのに…・。家の周辺のお宅は高齢者が多いのですが、車の無い家はありません。高齢になってからの運転がどんなに危ないと分かっていても、それが無ければ生活できないのですから仕方ありません。先日も県内で72歳の方が車を暴走させた交通事故死(死亡したのは大学生)の報道がありました。これは構造的な問題ですから、なにか手を打たない限りなくなることはないでしょう。やっぱりこれからはドローンでしょうか。


2024年2月16日金曜日

「シニアの筋力維持」

  最近「サルコペニア」という言葉をよく聞きます。加齢や疾患のため筋肉量が減少することにより起こる、筋力や身体機能の低下を指す言葉です。単に「虚弱を」意味する「フレイル」と呼ばれることもあるようです。一般にコロナ感染症対策で不要不急の外出をしなくなり、年配者・高齢者のフレイルが急速に進んだと言われていますが、これは本当に納得できます。たとえ風邪でも1日、2日寝込めば、自分ではっきりわかるほど体力が落ちます。昼間のフィットネスジムはシニアでいっぱいと聞いたことがありますが、そういう所で定期的に体を鍛えないと筋力が維持できないのでしょう。

 しかし、人の集まる施設が苦手という人もかなりいて、例えば畑仕事や山歩きを健康維持の秘訣としている人もいれば、仲の良い友人たちと観劇や買い物をすることで元気いっぱいの人もいます。私はこれまで週に1~2回、一日がかりの外出に合わせて、他の日はほとんど家の周りで過ごしながら体調を整えることが多かったのですが、良い季節になってきたこともあって、最近は午前中だけ外出し、午後の早い時間に帰宅するという外出法を試しています。もちろん朝から疲れを感じている時は出かけませんが、午後ゆっくり家で休めるためかこの方法は割と毎日おこなっても疲れないのです。

 ただの散歩と違うのは、交通機関を積極的に利用してよいことにしている点で、こうすると車内で休める時もあれば経っていなければならないこともあり、また乗り換えなどでは相当の距離を歩かなければならないことも多く、運動量は想像以上に多いと感じます。先日は日暮里まで交通機関を使って出て、谷中の墓地を抜けて上野まで歩きましたが、ちょうどよい散歩コースで、東京国立博物館の前に着いた時にはちょうど開館時間の頃で、非常に多くの人が並んでいたのでびっくりでした。年配の人もいたようなのに行列に並ぶ体力があるなんてすごい…。この方々はフレイルなんて関係なさそうです。帰りはバスや電車を乗り継いで正午過ぎに帰宅、4時間ほどの外出でした。

 2月の今からこの暖かさではきっとすぐに暑くてとても外出できない気温になってしまう予感がします。今のうちに体力増進を目指して、しばらくこの外出方法を試してみようと思います。観覧しないまでも美術館や庭園の場所を目指して行ってみる、一度も降りたことのない駅で降りてその地域を歩いてみる、一日券を使ってできるだけたくさん交通機関に乗ってみるなど、目先を変えた目標を作れば東京都心はそれ自体が巨大な遊園地になりそうです。


2024年2月9日金曜日

「生活インフラの地域間格差」

  能登半島地震以来まだ4万戸以上で断水していると聞くにつけ、やりきれない気持ちになります。しかもその復旧は3月とも4月とも言われ、絶望的に長い道のりに言葉もありません。昨年帰省先でマイナス8度が予想された時、夜間止水栓を閉めてネタことがありましたが、そのわずかな間さえ、私は水道から水が出ない不便をかこっていたのです。もし地震が大都市で起きていたら被害は比べ物にならぬほど甚大だったでしょうが、復旧はもう少し早かったかもしれません。地形的な要因もありますが、やはり人が集住していると復興は早そうです。これは神戸が大震災からほぼ完全に復興したのに比べ、東日本大震災の被災地の復興が進んでいないことにも現れています。

 東京でも大雪が予想された日の翌日、通院の予定が入っていた私は前日3時頃から降り出した雪の情報を注視していました。転院前なら、ほぼ一通りの交通手段しかないためにやみくもに不安がるだけしかなかったろうと思いますが、転院後2回目の診察となる病院にいくには4つの方法があり、「バスが止まったらこの鉄道路線、この路線が止まったらこっちの路線を使う」等々と、前日からシミュレーションできました。午後からの診察なので交通の様子を見ながら出かけられることも安心材料でした。実際はどの交通手段も止まらず、一番楽な方法で行くことができました。

 午前中に病院に到着し、検査を済ませてもまだ十分な時間があったので、散策がてら昼食に出られたのもよかった、前の病院はほとんど陸の孤島的に周囲に何もない環境だったので、通院の楽しみがありませんでしたが、今度は陰鬱な通院の中にも多少の楽しみがあり、こんな点も患者にとっては非常に大きな利点だと感じました。やはり「人がいる」、「店がある」ということはそれだけで心が明るくなるものです。

 診察についていえば、前回と今回の検査結果をサクサクと説明していただき、これから使いたい薬が眼科の方に影響が出ないかどうか問い合わせる書状を書いてくださり、次回眼科の意見を聞いてくることになりました。その他にも、「新しい薬を処方する前に心電図を取っておきましょう」という話があり、それは次回の診察前の検査に指定されました。こうやって一つ一つ確かめながら進められていることが分かると、本当に安心です。

 一方で、私のお薬手帳を見ながら、「これ、何の薬だろう。あんまり使わない薬だね」と私に聞かれましたが、自分でも疑問に思っていた薬だったので、「これ要る? 要らないよね」との言葉に「要りません」と私もきっぱり。もう一つの薬も削ってくれ、一挙に薬の種類が6つから4つになりました。あれほど願っていた減薬があっという間に実現しました。今まで何だったんだろう。大学病院から大学病院への転院なのに、こんなに対応が違うのです。

 私の場合は遠すぎて通いきれなくなっての転院でしたが、これだけ違うとなると「もっと早く転院すればよかった」とつくづく思いました。しかしこれは私が日本で最も病院の多い首都東京に住んでいるからできたのであって、医療機関を選べない地域も少なくないことでしょう。基本的にごみごみと混雑した人の多い所は苦手な私ですが、歳とともに、「集住という選択も必要かもしれないな」と思い始めています。


2024年2月3日土曜日

「兄の滞在」

 1月末から3泊4日で兄が遊びに来ました。と言うか、私が帰省先から戻る時に合わせて一緒に上京しました。私は今の場所に引っ越して二十数年になるというのに、今まで兄が訪問したことは一度もなかったのです。しかし、「このままでは私に何かあった時まずい」と思い、一度自宅の場所を確かめに来てもらったというのが正確なところです。兄にしてみれば三十年ぶりくらいの東京で、しかもその頃は西多摩に住んでいたので、東京都区部の東の方はほとんど縁が無く、この辺りはほぼ全く知らない場所です。

 一日目、10時半には自宅に着いたので、家の近くで特に買い物や食事のできるお店を中心に回り、昼食後は舎人公園を見てから、ライナーで日暮里まで行きました。兄は写真が趣味なのでわざわざ重いカメラ一式を持参しており、日本の滅びゆく風景を写真に収めることが、今回の旅の主な目的でした。都バスを泪橋で降り、辺り一帯の路地を歩き回って風景をカメラに収めていく兄の後を私はついていくだけでしたが、古い建物やここにしかない痕跡を撮れたらしく、本人は大満足のようでした(私は『あしたのジョー』のカラフルな像と一緒に写真に撮られ、「なんだかなあ」という感じでした)。場所を間違えてはいないと思うのですが、カフェ・バッハが閉まっていたのが残念でした。その日は三ノ輪まで歩き、迷いながら少し離れた都電荒川線(今は東京さくらトラムというらしい)の一方の端、三ノ輪橋から都電の旅を楽しんで帰ってきました。う~ん、三ノ輪橋商店街アーケードの中はほとんど「いつの時代?」と言っていいほど幻影的なものがありましたねえ。でもそこに地元の人々の暮らしがしっかりある。それは今でも都電が地元の人の大切な足になっていることと同じです。

 二日目は別行動、兄は柴又に行き、私は家でゆっくりしていました。三日目は兄のために恵比寿の写真美術館に行ったのですが、何と休館。この日は月曜ではなかったのに、何か特別展の関係で休館とは! しかし兄は特にがっかりした様子もなく、「それなら新橋から有楽町までレンガの鉄道高架橋に沿って歩きたい」というので、行ってみました。サラリーマンへのインタヴューシーンで必ず登場するおじさんたちの聖地・新橋の飲み屋街・・・。特に有楽町舌の高架下赤ちょうちん群は凄い。でも今回、日比谷OKUROJI(オクロジ)なるオシャレな店舗やレストランが続く地下道が有楽町〜新橋間にあることを発見、時代の盛衰に眩暈がしそうな空間でした。この日も兄は大満足だったようです。

 四日目、この日兄は昼頃の新幹線で帰るので、上野の森を散策。私は美術館がいいかなと思っていたのですが、兄の希望は科学博物館。クラウド・ファンディングで資金不足を乗り越えたニュース性もあり、私もまた何十年かぶりで行ってみたいという気になりました。修学旅行の中学生の見学者が多く、活気がありました。また、昔大英博物館で見たような寄付金を入れるガラスのボックスがあり、こういう形でも寄付を募るのはよいことだと思いました。とにかくこういった博物館は子供たちのためにも絶対になくてはならない施設です。兄は世界に4体しかないというニホンオオカミのはく製やら様々な化石やらをファインダーに収めて、これまた大満足のようでした。

 地球館、日本館とも一応全部見て回り、昼食を取って上野の新幹線改札で兄と別れました。今回の旅で兄とは趣味の点で一致するところはほとんどないと分かりましたが、それだけに普段行かないところに行けてよかったし、人々の暮らし向きをいろいろな角度から知ることができて有意義でした。私には良さがいまいち分かりませんが、今頃兄はニンマリしながら写真の整理をしていることでしょう。