先日友人に「ぶどう園の労働者の譬え」を説明しようとして、全く言いたいことがうまく伝えられないという経験をしました。自分では何となく理解できているつもりでしたが、言葉を尽くせば尽くすほど全然駄目でした。そして思ったのです。そもそもイエス様のたとえ話を解説してはいけなかった、と。それができるくらいならイエス様ご自身がなさっていたはずだから。
迷子の羊、岩の上の家、良きサマリヤ人、放蕩息子、種蒔きの譬えと、いくらでも出てくるたとえ話を考える時、「イエス様はなぜ譬え話を用いて語ったのか」という問いに突き当たります。これについてははっきりした答えが各福音書に出ています。聖書協会共同訳で見てみます。4つ全ての福音書において、たとえを用いて話すのは「一般の群衆に対して」であることが前提になっています。
マルコによる福音書(4章2節および34節)は簡潔に事実を記しています。
イエスはたとえを用いて多くのことを教えられ、その中で次のように言われた。
たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
マタイによる福音書(13章10~17節)は、弟子たちと群衆とを分けて考え、イザヤの預言を引きながら、その理由を述べています。
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘義を知ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、悟りもしないからである。こうして、イザヤの告げた預言が彼らの上に実現するのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り/耳は遠くなり/目は閉じている。/目で見ず、耳で聞かず/心で悟らず、立ち帰って/私に癒やされることのないためである。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。よく言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
ルカによる福音書(8章4節および9~10節)はマタイに近いですが、異邦人向けに簡潔に書かれています。
大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が御もとに来たので、イエスはたとえを用いて語られた。
弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ためである。」
ヨハネによる福音書(16章25~33節)は私の手に余る福音書ですが、全編にわたって、人の罪を赦すために独り子を十字架の死と復活に遣わされた神の愛が常に意識されているのは間違いありません。弟子たちに向かって渾身の願いを込めて、来たるべき日に信じる者となるようにとお語りになっているように思います。
「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない。父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたがすべてのことをご存じで、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。」イエスはお答えになった。「今、信じると言うのか。見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
こうしてみると、「天の国の秘義」とか「神の国の秘義」とか言っているのは何か特別不可思議なことを意味するのではなく、単に「イエスを神の御子と信じるか」どうかを指しているように思われます。しかし一方でこれほど難しいことはないとも言えます。信じるかどうかは個人の意思で決められることではないからです。ここで思い出すのは、ヨハネによる福音書9章でイエスが「生まれつきの盲人を癒す」箇所です。当時盲人は本人または親が罪を犯した結果と考えられていたため、目が見えるようにされた人が「こんなことは神のもとから来た人でなければできないはずだ」と言うと、ファリサイ派の人々は「お前は罪の中に生まれていながら我々に教えようと言うのか」と彼を追い出す場面です。その後の展開は9章35~41節に述べられています( ※「人の子」というのはここでは「神の御子」という意味です)。
イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった。彼と出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひれ伏すと、イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」
この「信じたい」から「信じます」までの距離は、この人の場合一直線につながっていますが、実はここに千里の径庭があります。この人が即座に「信じます」と告白できたのは、実際に主イエスに出会ったからです。この体験がなければ信じることができない、「信じたい」のに「信じられない」人がどれほどいることか。
ここで私の念頭に思い浮かばずに済まないのは、『罪と罰』第四篇におけるラスコーリニコフとソーニャの会話です。なぜかしきりに「ラザロの復活」の箇所を読んでくれとせがむラスコーリニコフに対して、ソーニャはなかなか読もうとしない。信仰深いソーニャの言葉を聞きながら、「信仰心が伝線したら大変だ」とばかりに神を拒みつつも、なぜだか彼は「さあ、読んでくれ!」と彼女に迫る。すると彼女は、「なんのために読むんです? だってあなたは神様を信じていらっしゃらないんでしょう?」と返すのです。信じない者に対しては何を話しても無意味だとソーニャは知っているのです。これほど哀切に満ちた場面は他にちょっと思い当たりません。半ば絶望しているソーニャの心情を思うと、「信じる」ことをめぐって、その困難と断絶、切なさややりきれなさをこれほど見事に描いた描写はないと感じ、私自身痛切に悲しくなります。こういう場合できることはただ祈ることだけです。「あなたの全ての罪を赦すために死なれた方を信じることができますように。神様が信じる心を与えてくださいますように」と。聖書は信じて読まなければ分からない書物です。信じて読む気のない人には意味のない書物です。信じて読めるかどうか、それを分ける分水嶺がたとえ話なのかも知れません。