2023年9月9日土曜日

「本が売れない理由」

  出版不況と言われて久しくなります。その間にも長年言論界を担ってきた書誌のみならず週刊誌の廃刊や休刊、書店の変容や廃業など出版業界の先細りはとどまる気配がありません。本が売れない理由についてはどこかで詳細に語られているのでしょうが、自分の肌感覚でその理由を述べます。この場合の「本」とはとりあえず紙の本ということにします。

 本といえば紙の本しかなかった時代が長かった世代として、私は活字の本が読めなくなってから、残念ながら本屋に行く楽しみを失いました。もし自分の目で紙の本が読めるのなら機会あるごとに立ち寄っているだろうと思いますし、たとえよく見えなくとも気に入った本、大切な本は紙の本として手元に置きたくなるのは間違いないことです。そして大事な本は紙の形で傍に置きたいと思うのは、おそらく万人に共通する欲望なのではないでしょうか。

 本が売れない第一の理由はなんといっても「読書をする時間がないから」だということに、きっと多くの人が同意することでしょう。仕事をしている人はますます時間に追われ、そうでない人でも毎日やることは数限りなくあり、情報の海の中で皆日々を必死で過ごしており、ゆっくり読書する時間が取れないのです。

 第二の理由は、「人々の関心がとめどなく拡散してしまったから」ではないかと思います。自由に使える時間があったとしても、スポーツ、旅行、音楽、絵画、舞台芸術、映像、ゲーム等は従来までとは比べ物にならないほどの次元に拡大しており、またその鑑賞だけをとっても、既に一生かかっても見切れないほどの量になっています。単にウェブ上で何かを追っているだけで一日は楽に終わります。

 それら「趣味」のごく一角を占める読書に限っても個々人の関心の拡散は顕著です。自分が音声読書になってから乱読してきた経験で強く感じるのは、人々が抱く興味・関心の領域の広大さへの戸惑いです。もちろんこれまでも各領域をカバーする本や情報はあったのですが、今はそれら一つ一つが細い毛細血管のように分化していくので、或る人の一つの強い関心は他の99.9%の人には何の意味も持たないものとなっています。興味の対象が近いと思われる場合も、時と共にさながら宇宙の膨張のようにそれぞれの方向に深化していき、気が付けば他の人の興味が向かう先を無関心に眺めるしかなくなっています。ベストセラーになる本は、或る意味その社会の多数が関心を持つ本です。人口減少や日本人の日本語リテラシーの問題もさることながら、共通のプラットホームを持たなくなった社会では100万部、200万部といった規模のベストセラーがなかなか出ないのは当然でしょう。逆に、詳細に分化した関心を引き付ける本は、それぞれの領域で元々売れる数に限度があり、爆発的に売れる見込みは少ないということです。

 現代の作家はかなりのハイペースで本を量産しないと埋もれてしまうようで、これができてデビュー後5年、10年「と生き残っている作家は真に才能にあふれた人と言わねばなりません。ただここにも気がかりとして感じることがあり、それは読者の関心を引こうとするあまりやり過ぎることで、いくら表現の自由といってもここまで書いていいのかと、個人的には大いに疑問を抱く場合がまれではありません。自分が読まなければいいだけと言えばそれまでですが、ただでさえ病んでいる社会を或る種の本がさらに歪ませやしないだろうかと考えてしまうのも確かです。自分が読んで気分の悪くなる本でも喜んで読む人がいるのかと思うと、心中非常に複雑で、時々気持ちが萎えます。

 本が売れない第三の理由は「グローバル経済の下で紙の本はコスパが悪い」という見解が浸透したことです。本が一冊出るには執筆者以外に、出版業界の編集、デザイン、印刷関係、書店、物流関係、文壇・文筆に関わる人々といった非常に数多くの手が必要で、それらの人々の努力の結果ようやく本という形になります。当然めいめいがその対価を受け取りますが、水が低きにつくように最も安価なところに落ち着くような経済環境の中では、対価はどんどん切り下げられていきます。

 また、内容を公開するだけならオンライン上でほぼ無料でできるので、そういう方法を取る人が増えてくると、本代を惜しむ気持ちも生まれます。時事的、実用的な情報などは伝達速度が最重要であり、真偽の程度は別としてウェブ上に大量に流されるので、特にそう感じるかも知れません。さらに、著作権の切れた本は正当にいくらでも読めますし、まっとうなデジタル図書館で研究書を閲覧して気の済むまで調べものができるようにもなっています。このような流れの中で現在では労働の価値が毀損されるのが常態となってしまったのです。

 こうしてみると本が売れない理由の全てにおいて、直接、間接を問わずインターネットの登場とその発展があることは明らかです。しかし、インターネットは情報収集ツールとして単に万人にとって利便なだけでなく、紙の本が読めない人にとっては命綱と言っていい不可欠な手段であり、これがなくなる事態は考えられません。紙の本の先細りがどこまで進むかはともかく、この流れは止まらないでしょう。ただ、出版業以外の社会全体の変遷を考えると、現在はインターネットのメリットがデメリットを凌駕していると自信をもって断言できないところまで来ているのも確かです。仮に電気や電磁波をみな吸収するという「電獣ヴァヴェリ」が出現すれば、今ある問題(犯罪や格差、地球環境)のほぼすべてが解決するでしょう。馬車や帆船しかない社会もそう悪くないかも知れませんが、テクノロジーは一旦始まると途中で抑制を利かすことはできず、行きつくところまで行ってしまうことを考えると、今後はむしろ生成AIが生み出すものから目が離せず、作家、文筆家たちの行く末を案じる時が来ないとは言えません。