2023年9月30日土曜日

「ロング・ロング・サマー」

  「暑さ寒さも彼岸まで」って本当だなと思っていたら、東京は9月の最後に来て27日、28日と真夏日となりました。28日は最高気温33.2℃、その熱が残って29日の最低気温は25.2℃の熱帯夜でした。東京で最も遅い熱帯夜の記録更新です。本当に長くつらい夏でした。エアコンをつけての籠城に備えて食糧を備蓄したり、洗濯物を貯めるのが嫌で毎日衣類を手洗いしたりしていましたが、いつ終わるとも知れない猛暑の見通しにくじけそうな毎日でした。とにかく脱水を起こさぬよう水や麦茶を飲んで過ごしましたが、なかなか運動ができないので「ああ、体力が落ちていく・・・」と、自分でもよく分かりました。秋分の日の翌日の日曜日、最低気温が20℃を割り、最高気温も27℃ほどになった時は、もうそれだけで体中に力がみなぎってくるように感じるほどでした。

 でも自分でなにがしか防衛できる人間はまだよいのです。飼われている小屋の中で弱り切った牛、豚、鶏の話や、食べ物が無くて山から下りてこざるを得ない野生動物の話、またそれ以前に暑さで野菜が枯れたり、新潟の有名な米どころで雨が降らず稲が実を結ばないという話をニュースで聞くにつけ、可哀想でなりませんでした。農家の方々、牧畜に関わる方々のご苦労はいかばかりか、またどれほど気を揉んでおられることかと、本当にやるせなく胸が締め付けられるようでした。牧牛の飼い主が家族同様の牛と同じ暑さを体感するため、牛舎の中で牛と一緒に土に寝転ぶという話に胸が詰まり、一日も早く涼しくなることを願わずにはいられませんでした。温暖化に伴うこういう現象はほとんど人間の活動が引き起こしていのでしょう。

 うちの窓辺の多肉植物も半分は枯れ、あとの半分も瀕死の状態です。これからは涼しくなるので、持ち直してくれるかどうか・・・。先日はお店であまりにも元気そうな多肉植物の鉢植えを見つけ、もう大丈夫だろうと購入しました。この夏の暑さにやられてやせ細ったうちの鉢とはなんと対照的にぷっくらしていることでしょうか。日本はほぼ丸4カ月真夏となってしまったようです。来年のことは今は考えたくないです。


2023年9月27日水曜日

「経済の仕組み」

  経済学は長らく自分とは対極にある関心領域だと思っていました。その理由は、第一に数学や統計学ができないと学説が理解困難であるため、第二に、同じ経済現象を見ながら学者によって捉え方も解釈もまちまちであることで何か胡散臭い気がしたためです。さらに現在、ここまで経済をめぐる世界の状況が行き詰まってしまうと、経済学の存在意義もかなりの程度毀損されていると感じていたのです。元より財テクや資産運用には関心がありません。

 しかし、もともと経済学は人間の社会活動の振舞いを、或る一定の観点から眺めたことによって生まれた学問であり、その意味では気分によっても風土や慣習によっても違う「人間」そのものを相手にするものだったはずです。経済学の歴史には、道徳を経済活動の一要素として含んでいたアダム・スミス以来の多くの学者たちのそれぞれの願望の痕跡が認められますが、現在はもはや単なるマネーという物差ししか残っておらず、強欲な富者たちの支配する確固たる世界が創出されています。ひょっとすると今では経済学を学ぶ動機を持つ者は、金融工学がはびこるこの世界で少しでも個人資産を増やそうとあがいている人だけかも知れません。

 ところが、経済学畑出身でない人の中には、社会現象としての経済の動きを実に面白い視点で分析している方がいるようです。おそらく、敗戦後にドルを主軸通貨として精緻に発展した近代経済学において、日本の学者の発想はドル経済圏を一歩も出たことがなかったばかりでなく、ドル以外の主軸通貨の可能性を一度も検討さえしたことがなかったようです。終始ドル経済圏を支え続けてきた日本は健気と言えば健気ですが、どれだけいいように使われてきたのかと思うと国民としてはちょっと悲しく情けない。今では米国との間の互いの経済の在り方は一蓮托生、無尽蔵とも言えるほど増大させ続けてきた実体のないマネーは間違いなくいつかクラッシュするので、これに伴うカオスに付き合わされると思うと気が重くなります。

 9月22日の日銀会見で発表された金融政策決定会合の結果は誰もが予想していた通りで、全くの茶番でした。物価の上昇は誰の目にも明らかなのに、ずっと続いている大規模金融緩和を修正するには「目標の持続的安定な達成を見通せる状況には至っていない」のだそうです。それなら政府はなぜ物価高に対応する様々な経済政策を行うと言っているのでしょう。利上げはできないお約束なので、日銀はいつものお題目を唱えざるを得ないのでしょうが、どれだけ「粘り強く金融緩和を続ける」つもりなのでしょうか。バブル崩壊以降、特に21世紀の日本の金融政策はただただ国家財政を破綻させないことだけを眼目にしてきたため、ゼロ金利を押し付けられた国民は実質的な大増税を課され、貧困化したためにもはや大好きな貯金をする余裕もなくなったのです。せめて金利が2~3%あったならこれほど惨めな安い国にはなっていなかったでしょう。

 日銀会見の2日前の9月20日に飛び込んできたニュースは、英国第二の都市バーミンガムの財政破綻です。なんでも十年前からの市職員の不平等賃金の未払いに関して、債務に見あう財源がないというのが直接の原因らしいのですが、この産業革命の中心都市にしてロンドンに次ぐ大都市の破綻の報に考えるところがありました。かつて世界の海の覇権をほしいままにし、文字通り海洋帝国だった英国は第二次大戦後大きく縮みましたが、あれほど大きかった国が縮小するにしては意外とうまくソフトランディングできたのかと思っていました。縮み方の手本として日本も学ぶところがあるのではと思ったのです。

 そこに今回の大都市破綻のニュースです。昔盛んに言われた「英国病」とは結局、手厚い社会保障の負担とGDPの2倍以上の国債負担(この場合は戦費を含む)により、低成長とインフレが続いたことによります。書いているだけで「これは今の日本と同じ」と分かります。しかも日本の場合、国債の償還額がすでに膨大なばかりでなく今後も増え続けることが確実です。MMT(現代貨幣理論)の破綻を目にするのも間近なことでしょう。

 戦後の英国も金利を上げずに低金利政策(金融抑圧)を続けた結果、低成長から抜け出せず大幅にポンドが下落しました。まだ固定相場制だった1960年代、ドルが360円だったのは良く知られていますが、ポンドの固定相場は1ポンド=1008円でした。旅行でポンド建てのトラベラーズチェックを持って渡英した1980年代後半には、すでにポンドは230円ほどだった記憶があり、2023年の今は185円前後ですから、五十数年でポンドは円に対しては五分の一以下になりました。

 日本も低成長およびゼロ金利となって久しく、「失われた三十年」という言葉もあるくらいですから、今後円安が加速するのも確実でしょう。政府は株式市場への国民の参加を大々的に奨励し、個人所得を増大させようとしています。しかし、に2024年からの新しい少額投資非課税制度(NISA)に合わせ、ネット証券最大手のSBI証券と2位の楽天証券が9月以降、日本株の売買手数料を無料にするという話を聞くにつけ、そこまでして顧客として大衆を巻き込まないとならないほど追い詰められているのかと、かえって株式市場の危険感が増したと感じるのは私だけでしょうか。インボイス制度についても何やら個人事業主の捕捉に関する深い事情がありそうです。

 たぶん金融市場の在り方は、意外とシンプルなのではないかと思います。誰かの得は誰かの損であり、誰かの資産は誰かの負債でしょう。銀行の預金は個人や企業の資産ですが、銀行にとっては負債に他なりません。銀行は預金者に借金する形でお金を回しているのです。負債の相手が変わっても、結局相手先が払いきれなくなった時に破綻するのだと考えればすっきりします。そしてその国の生み出すGDP増加額より多いマネー・サプライを発生させればいつか必ず破綻しますが、日本の場合これが途方もなく増大しているのですから、いつX-DAY(エックス・ディ)が来てもおかしくないなと天を仰いで嘆息するしかありません。もちろん他の諸国、米国、EU、中国などもそれぞれに大きな問題を抱えていますが、だからといって日本の絶望的状況は増幅こそすれ、薄まるわけではないのです。まだまだ知らないことばかりですが、わからないながらも取り組んでいると、「経済って仕組みが分かればすごく面白そう」ということだけは分かってきます。通貨、金利、通貨量、GDP、資産、負債・・・その他諸々について少しずつでも学んで、分かるようになりたい。ま、分かったからと言って何ができるわけでもないのですが。


2023年9月20日水曜日

「HIMARIちゃん」

 子供の天才ヴァイオリニストがいると聞いて、初めて吉村妃鞠さんの動画を見てみました。私は音楽に限らず元来小さな子供があまり器用に巧みな芸当を見せたり、大人がそれをもてはやしたりする風潮が好きではありませんが、一目見て驚倒しました。音楽一家に生まれ、いつも身近なヴァイオリニストの母親の演奏に接し、小さなヴァイオリンで遊びながら3歳ごろから弾き始めたらしい。4歳からコンクールに出場して以来、あらゆるコンクールの最年少優勝記録を書き換えており、6歳でもうプロのオーケストラと共演しています。いくつかの動画を見ましたが、途方もないレベルの演奏でした。小さい体で大地を踏みしめるかのようにステージに立つ姿は、完全に小さな大人でした。演奏中は終始クールな表情、HIMARIオフィシャルサイトのあどけない笑顔の子供の顔とは別人です。

 演奏直後にどっと拍手が来るかと思いきや、これがバラバラと遅れてくるのは一瞬みな目の前の現実が信じられないからではないでしょうか。一体何が起こったのかという驚愕なのです。今年4月11歳で出場したモントリオール国際音楽コンクールでは、まだヴァイオリンのサイズはフルサイズではないようでしたが、優勝者に贈られる聴衆賞に選ばれました。HIMARIちゃんにとってはおじいちゃんに当たる年代の審査員席のマエストロの中には、目頭を押さえて体を揺らしながら没入している方も見られました。魅了されてしまったのでしょう。私もこんなに清々しく心洗われたのはいつ以来か。久しぶりに希望の光を見た気がしました。今はただこのまますくすくと成長してほしいと願う気持ちでいっぱいです。子供というものは本当に希望そのものだと思わされました。これから元気が出ない時はHIMARIちゃんの演奏が力づけてくれそうです。


2023年9月15日金曜日

「戸別訪問のブラック営業」

  帰省先に滞在中、玄関チャイムが鳴って出てみると、「〇〇工業の者ですが屋根の瓦がズレています」とのこと。こんな古典的な詐欺がいまだにあるのかと吹き出しそうになりました。「結構です」とバシッと扉を閉めて施錠。すると、「いえ屋根が大変なことになっているので市役所に通報します」と電話を掛ける(まねごとの)声が聞こえてきました。市役所が一個人の住宅の修繕に介入してくるわけがない。新手の手法だなと分かり、同時に爆笑の渦がこみ上げてきましたが、何となくこれ以上刺激しない方がいいと、その場を離れました。玄関には「押し売り、勧誘、訪問販売等はご遠慮ください」と、すぐ見えるところにテプラで書いて貼ってあるのに、女子供(?)だと思って甘く見ているのか。

 この件はちょっとあり得ないあくどい手法だったので後で一応兄に報告したところ、「そう言えば前に『向こうの工事に来ている者ですが、家の不具合が無いか近くを回っています』というのが2回くらいあった」とのことでした。本当に近くの工事に来ていたのかどうかは不明ですが、リフォーム業者等の営業がかなりきつくなっているのは確かなようです。人の性格にも依りますが、このような飛び込み営業が好きな人がいるとは思えない。労多く実りの少ない労働で、とにかく苛酷なノルマが課されているのでしょう。お気の毒ですが、需要はあるところにはあるし無いところには無い。正攻法で頑張っていただきたい。こちらも降りかかる火の粉は払います。

 という体験をして東京の自宅に戻った夕方、集合住宅玄関エントランスからのチャイムが鳴りました。「工事の予定をお渡しするので階下まで来てください」という声が聞こえました。ぼんやりした頭で「ずいぶん高飛車だが工事の予定なんてあったかな」と思いつつ、「何の工事ですか」と聞くと、「風呂場の工事です」とのこと。移動日で疲れていたため、「ポストに入れておいてください」と言ってインターホンを切りました。

 少ししてよくよく考えてみるとこれはおかしな話で、帰省先から頭の切り替えがうまくできていなかったなと反省。毎回理事会の議事録には目を通しているので、今現在各住戸に関わる工事予定が無いのは分かっていました。だから、「理事会を通っている話ですか」と尋ねれば、「通っていない」もしくは「理事会とは別です」と答えるに違いなく、「うちは結構です」と話を打ち切るべきでした。万一、住人が階下まで行って工事予定なるものをもらってしまったら、住人が自主的に望んだ工事として無用な面倒に巻き込まれたのかも知れません。念のため翌日ポストを見てみましたが、やはり何も入っていませんでした。顧客になりそうもない人に、それなりに経費をかけて作成した資料一式を渡す程度の無駄もできない状況なのでしょう。集合住宅といえど各戸への個別営業のやり方が巧妙さを増しているように感じます。やり取りするのも気鬱になるためインターホンに一切応答しないという手もありますが、郵便書留だけは受け取りたい。なぜか郵便書留はちゃんと制服を着た職員が配達に来るようなので、インターフォンの画面で制服を見分けるしかないのかなと思っているところです。あ、でも郵便局の制服に似た工務店等の作業着が増えちゃったりして。


2023年9月9日土曜日

「本が売れない理由」

  出版不況と言われて久しくなります。その間にも長年言論界を担ってきた書誌のみならず週刊誌の廃刊や休刊、書店の変容や廃業など出版業界の先細りはとどまる気配がありません。本が売れない理由についてはどこかで詳細に語られているのでしょうが、自分の肌感覚でその理由を述べます。この場合の「本」とはとりあえず紙の本ということにします。

 本といえば紙の本しかなかった時代が長かった世代として、私は活字の本が読めなくなってから、残念ながら本屋に行く楽しみを失いました。もし自分の目で紙の本が読めるのなら機会あるごとに立ち寄っているだろうと思いますし、たとえよく見えなくとも気に入った本、大切な本は紙の本として手元に置きたくなるのは間違いないことです。そして大事な本は紙の形で傍に置きたいと思うのは、おそらく万人に共通する欲望なのではないでしょうか。

 本が売れない第一の理由はなんといっても「読書をする時間がないから」だということに、きっと多くの人が同意することでしょう。仕事をしている人はますます時間に追われ、そうでない人でも毎日やることは数限りなくあり、情報の海の中で皆日々を必死で過ごしており、ゆっくり読書する時間が取れないのです。

 第二の理由は、「人々の関心がとめどなく拡散してしまったから」ではないかと思います。自由に使える時間があったとしても、スポーツ、旅行、音楽、絵画、舞台芸術、映像、ゲーム等は従来までとは比べ物にならないほどの次元に拡大しており、またその鑑賞だけをとっても、既に一生かかっても見切れないほどの量になっています。単にウェブ上で何かを追っているだけで一日は楽に終わります。

 それら「趣味」のごく一角を占める読書に限っても個々人の関心の拡散は顕著です。自分が音声読書になってから乱読してきた経験で強く感じるのは、人々が抱く興味・関心の領域の広大さへの戸惑いです。もちろんこれまでも各領域をカバーする本や情報はあったのですが、今はそれら一つ一つが細い毛細血管のように分化していくので、或る人の一つの強い関心は他の99.9%の人には何の意味も持たないものとなっています。興味の対象が近いと思われる場合も、時と共にさながら宇宙の膨張のようにそれぞれの方向に深化していき、気が付けば他の人の興味が向かう先を無関心に眺めるしかなくなっています。ベストセラーになる本は、或る意味その社会の多数が関心を持つ本です。人口減少や日本人の日本語リテラシーの問題もさることながら、共通のプラットホームを持たなくなった社会では100万部、200万部といった規模のベストセラーがなかなか出ないのは当然でしょう。逆に、詳細に分化した関心を引き付ける本は、それぞれの領域で元々売れる数に限度があり、爆発的に売れる見込みは少ないということです。

 現代の作家はかなりのハイペースで本を量産しないと埋もれてしまうようで、これができてデビュー後5年、10年「と生き残っている作家は真に才能にあふれた人と言わねばなりません。ただここにも気がかりとして感じることがあり、それは読者の関心を引こうとするあまりやり過ぎることで、いくら表現の自由といってもここまで書いていいのかと、個人的には大いに疑問を抱く場合がまれではありません。自分が読まなければいいだけと言えばそれまでですが、ただでさえ病んでいる社会を或る種の本がさらに歪ませやしないだろうかと考えてしまうのも確かです。自分が読んで気分の悪くなる本でも喜んで読む人がいるのかと思うと、心中非常に複雑で、時々気持ちが萎えます。

 本が売れない第三の理由は「グローバル経済の下で紙の本はコスパが悪い」という見解が浸透したことです。本が一冊出るには執筆者以外に、出版業界の編集、デザイン、印刷関係、書店、物流関係、文壇・文筆に関わる人々といった非常に数多くの手が必要で、それらの人々の努力の結果ようやく本という形になります。当然めいめいがその対価を受け取りますが、水が低きにつくように最も安価なところに落ち着くような経済環境の中では、対価はどんどん切り下げられていきます。

 また、内容を公開するだけならオンライン上でほぼ無料でできるので、そういう方法を取る人が増えてくると、本代を惜しむ気持ちも生まれます。時事的、実用的な情報などは伝達速度が最重要であり、真偽の程度は別としてウェブ上に大量に流されるので、特にそう感じるかも知れません。さらに、著作権の切れた本は正当にいくらでも読めますし、まっとうなデジタル図書館で研究書を閲覧して気の済むまで調べものができるようにもなっています。このような流れの中で現在では労働の価値が毀損されるのが常態となってしまったのです。

 こうしてみると本が売れない理由の全てにおいて、直接、間接を問わずインターネットの登場とその発展があることは明らかです。しかし、インターネットは情報収集ツールとして単に万人にとって利便なだけでなく、紙の本が読めない人にとっては命綱と言っていい不可欠な手段であり、これがなくなる事態は考えられません。紙の本の先細りがどこまで進むかはともかく、この流れは止まらないでしょう。ただ、出版業以外の社会全体の変遷を考えると、現在はインターネットのメリットがデメリットを凌駕していると自信をもって断言できないところまで来ているのも確かです。仮に電気や電磁波をみな吸収するという「電獣ヴァヴェリ」が出現すれば、今ある問題(犯罪や格差、地球環境)のほぼすべてが解決するでしょう。馬車や帆船しかない社会もそう悪くないかも知れませんが、テクノロジーは一旦始まると途中で抑制を利かすことはできず、行きつくところまで行ってしまうことを考えると、今後はむしろ生成AIが生み出すものから目が離せず、作家、文筆家たちの行く末を案じる時が来ないとは言えません。


2023年9月4日月曜日

「ラジオの皆さま」

 熱帯夜があまりに長く続いたため、すっかり睡眠のリズムが狂ってしまいました。夜は2、3時間おきに目覚め、そのまま眠れなくなって「ラジオ深夜便」を聞いたり、朝ぼんやりした頭で「マイあさ」をつけて覚醒したりするので、ラジオが手放せません。この24時間無休の媒体がいかに多くの方々によって担われているかに感嘆すると同時に、ラジオの方々はどうしてこう気持ちのいい人たちが多いのだろうと感心します。

 これぞ言葉のプロと思えるアナウンサーが大勢いて、その言葉遣い、対話相手との絶妙なやりとり、リスナーへの配慮など、磨きのかかった技に圧倒されます。一人一人個性的で、リスナーから銘々「押し」のアナウンサーへお便りもたくさん寄せられるようです。今でも葉書やファックスを書いて送る方がいる一方、話題に合わせてその場でメール送信をする人も多く、これがまた面白い掛け合いに発展します。

 アナウンサーの皆様が当意即妙で楽しくかつ気遣いのできる方々であるせいか、リスナーの皆さんも本当に善意の方が多い。新潟からは「あめの多い地域の方々には本当に申し訳ないのですが、雨が降りません」と干ばつに悩む声が届いたり、夏の巡回ラジオ体操では体操の指導者の呼びかけに答える地元の方々の元気な声が半端ない。世界中このような方々ばかりなら問題なく平穏に過ごせるだろうと思えるほどです。 

 私の「押し」は土曜日「マイあさ」担当の女性アナウンサーで、とても巧みな言葉遣いの方なのですが、時おり漏れる素の声が面白いのです。或る歌の歌詞に関する話題で、相手が「『今だからこそ言える』という現在の静かな時間はいいですね」という趣旨のことを述べた時、彼女は「私は『今だからこそ言える』ということは、言う必要のないことだと思います」と答えたので、私は「そりゃそうだ」と、可笑しすぎて捧腹絶倒。この方はまた、コロナ後の学校でプールが再開された話題で、もう一人のアナウンサーから「〇〇さんはプール好きでしたか」と聞かれ、「大嫌いでした」と即答。「学校のプールは大嫌いでした。先生に『〇〇ちゃん、みんなで同じ行動がとれるまで終わりませんよ』って言われてました」と付け加えたので私はまた爆笑。何気なく話を振った相手もそこまでの秘話は予想してなかったでしょう。さらに先日は、「9月になって一挙に長袖やスーツ姿の通勤客が増え、まだ夏服の自分は居心地悪かった」という趣旨の(日本でしかありえない)投稿に対して、「私は今日もノースリーブにサンダルです。心地よさ重視で」と、言っていました。この人、本当にいいな。同調化圧力をものともせずに頑張ってほしい。

 CMばかりで身の部分が非常に少ないテレビに比べ、ラジオは(その内容やジャンルの好き嫌いは別として)中身は充実しています。カバーする範囲が広く、全く関心をもったことの無かった分野でも聞いているうち興味が湧くこともたびたびです。それに、もしかするとこれがラジオを好きな一番の理由かもしれないと密かに思っているのは、毎時の時報が聞けることです。デジタル放送になってから時報が聞けなくなったテレビがなんとなく不安で、不満だったのだなと自覚したのはわたしだけでしょうか。寺宝の前後にほぼ確実に天気予報と簡潔なニュースが聞けるのも気に入っています。