2022年11月25日金曜日

「日本の推理小説」

  推理小説の読み始めは、私の場合、何と言っても小学校時代の「少年少女世界推理文学全集」(あかね書房)です。今思うとあのチョイスはすばらしく、とにかく幅が広い。推理小説の大家クリスティやクイーン、ヴァン・ダインはもちろん、他の出版社がシリーズものを擁するホームズやルパンも入っていたし、ポオの怪奇小説、ハメットやチャンドラーのハードボイルド系、文学者というべきチェスタトンやモーム、スティーブンソン、さらにロシアのアシモフやベリアーエフ等のSF系までカバーしていました。サスペンスの手法に優れ、いかにもアメリカらしい都会の孤独な人々が蠢く社会を描いたアイリッシュ(またの名をウールリッチ)なども、日本という別世界に住む子供にとって惹かれるものがありました。初めて推理小説の世界を探求する子供には、この全集はまさに道しるべとも言うべきうってつけの本でした。中学時にはその延長で、クリスティやホームズなど、自分の好みにあったものを文庫本でまとめて読んでいました。

 これに対して、日本の推理小説にはほとんど興味を引かれませんでした。小学校時代こそ少年探偵団の江戸川乱歩シリーズを読みふけりましたが、その後は社会派と言われる松本清張にしても、また角川が映画とタイアップして売り出す手法を編み出した森村誠一、横溝正史にしても、戦中・戦後の忌まわしい記憶や村社会の陰鬱な掟などにどうしてもなじめませんでした。この時代は東西冷戦下のスパイものが目を引きましたし、映像ならやはりコロンボシリーズの方が断然面白かったのです。

 そういうわけで、私が次に日本の推理小説を読むようになった時には、ざっと二十年の年月が流れていました。まず宮部みゆきにハマり、その後は評判に応じて、東野圭吾、湊かなえ、海堂尊、中山七里など面白く読みました。私の場合は人文科学系の書籍を一方で読みながらも、それだけでは飽きてしまうので並行してどうしても推理小説に手が伸びます。そして推理小説はまさに社会の歪みを描き出し、「現在」という時空を知る格好の材料ですから、様々な現実に触れて考えさせられることが多いのです。或る時期以降どっと書かれるようになったお仕事小説の中にも犯罪が絡んでくることが多いので(人のいるところ必ず犯罪あり)、推理小説と言う区分は曖昧になっているかもしれません。

 現代社会を舞台とする小説を手掛ける方々の中にも、私が一度も読んだことのない推理作家はごまんといることでしょう。ところが、そうではなくて三十年以上前の推理作家なのに、これまで見落としていた本格推理作家、島田荘司を最近発見しました。書かれた時期が古いのは当然ですが、小説の舞台がさらに古い戦前・戦中・戦後から現在までと広範囲なのに驚きつつ、時代考証の確かさに感じ入りました。暗い時代の残滓が事件につながるという点で、本来私の好きな類の話ではないのですが、自分が歳を重ねたせいか「ああ、そういう時代だったのだ」と、埋もれた歴史やまさしく自分が生きてきた時代への思いが嫌悪感より先に立ちます。

 私が数冊読んだ限りでは、この作家は主に二種類のタイプの話を書き分けていて、一つは①風変わりで常人離れした探偵を主人公とするもの、もう一つは②昔ながらの地味で丹念な捜査をする老刑事を主人公とするもの、③その他です。

①には秘書的な相手役がいることから分かるように、明らかにシャーロック・ホームズを意識しており、自分の関心を引く事件を見つけては世界を股にかけて軽妙洒脱な推理を展開します。文学としても面白く、既読の範囲で言えば、グロはあってもエロのないところが女性癌が多いと言われる理由でしょう。

②は扱う時代の古さや言葉遣いから、江戸川乱歩へのオマージュだと言って間違いないでしょう。起こる事件はバラバラ殺人などスプラッタ系が多いものの、それは本格ミステリに特有の筋立てで、おどろおどろしさとは別物です。例えばクリスティにおいて、マザーグースの歌に従って次々と殺人事件が起きても、単に推理ゲーム解読の重要な要素であって、むごたらしいとは感じないような枠組みなのです。

  真っ先に思ったのは、「こりゃ、少年探偵団的な子供向け江戸川乱歩の大人版だわ」ということです。無論、怪人などは登場せず、犯人はみな生身の人間ですが、著者が美術畑の人らしく空間の把握がずぬけています。そのため読者は大掛かりな記述を見せられているような気分になります。途中で「まさか・・・」と思いついたトリックが当たりだった時も、「それはどう考えても無理筋でしょ」と、転げながら笑ったほどです。しかし冷静になって、そのトリックは本当に無理かと言うと、物理・化学的、歴史・社会的、人間科学的といったいくつもの複雑な連立方程式の紛れもない「解」となっていることに気づきます。

  この一分の隙もなく練られた推理小説群の中には、列車内での殺人事件、交通機関が重要な鍵となる犯罪、いわゆる時刻表トリックなどもあり、このような推理小説は正確無比な運行をする日本の列車ダイヤのもとでしか生まれ得ないものであると同時に、シャーロック・ホームズものが貴重な民俗誌となっているのと同様、戦後の日本を知る興味深い読み物だと言ってよいでしょう。

③その他は、市井で起きるありそでなさそな事件です。乾いた筆致の短編が多く、ちょっとアイリッシュが入ってる気がする。世界のミステリはほぼ全て翻訳が出ているのは日本の強みで、筆者はあらゆるタイプの探偵小説を自家薬籠中の物にしている感があります。また、ロンドン留学中の夏目漱石がシャーロック・ホームズと出会うファンタジー推理話など自由自在の想像力で楽しませてくれます。これも奥深い日本文学の伝統の上に生み出された作品、いや、感服しました。この作家をどうして今まで知らなかったのかと狐につままれた気分で、これこそ最大のミステリかも知れません。


2022年11月18日金曜日

「余裕ゼロの社会へ」

  いつも突然思い立つ性分ですが、少しずつ今年の大掃除に着手しようと、先日はガスレンジ回りのお掃除を終えました。3口ガスコンロカバーの最後の1枚を使い切ったので、来年のために買い置きしようと、大手の二大スーパーに出かけました。ところが前回買ったはずなのにどちらの店にもない。たぶんホームセンターにはあるのでしょうが、近くにないため仕方なく通販で注文することに・・・。これがなかなか見つからず、あってもむやみに高額だったり、送料が同じくらいかかるなど選択に難航しましたが、ようやく折り合える価格の3枚入りの商品を見つけて注文しました。レヴューを見ると、「うちのは20年前のガスレンジなので」とか「近くのスーパーにないので助かります」などのコメントが・・・。私と同じような境遇の人たちはやはり困ってたんだなということが分かりました。スーパーの売り場にはおのずと限界があり、買い手の需要も多様化しているので、3口ガスコンロカバーという、常時売れるわけではない商品を置く余裕がなくなったのでしょう。このケースではIHクッキングヒーター(火災の心配は低いが電磁波の影響があるともいう)の家が増えたためかもしれません。そのため、この何の変哲もないはずの商品が馬鹿げた大きさの段ボールに入って配送されるという事態になりました。

 配送に関しても最近は思うところがあります。配送業のプロではなく、明らかに素人と思われる(大抵は非常に若い)人によって配達されることが増えています。人手が足りないのと、素人がアルバイト感覚で配達に参入(使ったことはないがウーバーイーツなど)することが一般化したためでしょう。これがひどい。プロの方はインターフォンで挨拶し、集合扉を開けると個別住戸の前まで持って来てくれ、こちらもドアを開けて御礼を言って受け取るという、安定したパターンを辿りますが、アマチュアの場合は、こちらがインターフォンに答える間もなく呼び出しが切れてしまい(わざとかも知れない、上まで運ぶ手間が省けるから)、下の宅配ボックスまで取りに行かなければならなかったり、インターフォンに応答してロビーの扉を開けて待っていても家の玄関に現れず、さすがにおかしいと階下に見に行こうとして、同じ階の別の住戸の玄関先に置かれているのを発見したこともあります。全く訓練を受けていないのです。

 先日、通院が早く終わった後に珍しくカフェに入ったところ、驚いたことにウェイターが一人しかいませんでした。しかもどう見ても十代としか思えない若い人でした。おしぼりと水が出てくるまでに5分、メニューをもらうまでにさらに5分、注文をして待っていましたが1時間近くたっても饗応が無い。呼んで「オーダー入ってますか」と聞きましたがうんともすんともなく、確認しに行ったまま戻って来ない。名前は控えますが、この店はどこにでもあるチェーン店などではなく、れっきとしたコーヒー店で、落ち着いた雰囲気の店です。あまりに不可解な状況でどうしたものかと困惑しました。そのうちどうやらシフトが変わったらしく、先ほどのウェイターはいなくなり、少し年長(といっても二十代前半くらい)のウェイトレスがフロアを行き来するようになりました。すぐに呼んでこれまでの事情を話し、調理に入っているなら頂くが、入っていないならキャンセルする旨を伝えたところ、やはりオーダーは入っていませんでした。ウェイトレスさんは平誤りでしたので、それ以上は言わずそのまま店を出ました。

 店を出てまず「爆発せずによく頑張った」と自分を褒めましたよ。不愉快には違いありませんが、カフェの雰囲気を楽しめたことを良しとし、それからあの少年について考えました。店に出られるレベルでなかったのは確かです。オーダーを入れ忘れたのならそう言ってくれればよいだけだったのです。失敗は誰にでもあることですし、そうやって学んでいくのですから。これまでに失敗して叱られ、大変な経験をしたため恐くて言えなかったのかもしれません。残念なことです。あのようなカフェでもちゃんとした接客教育ができていないということをまざまざと知らされ、人で不足を身近に感じました。とにかく、あらゆる面で社会に余裕がなくなっています。そしてそのことにより悪いサイクルが形成され、日ごとに加速しているようです。悪循環が解消される見込みはないことを思うと、このような社会の余裕の無さに人間がどこまで耐えうるか心配です。気が重いことです。


2022年11月11日金曜日

「昭和な」讃美歌

 祖父の卒寿の時だったか、集まった叔父、叔母が何やら楽しそうに歌う讃美歌に軽い衝撃を受けた覚えがあります。聞いたことも、もちろん歌ったこともない讃美歌で、まるで戦後すぐの荒廃した風景に響き渡るマーチ調の歌でした。後にそれは『聖歌』の中の1曲と分かるのですが、おそらく福音派系と思われる『聖歌』を私が知らなかったのも当然です。日本基督教団ではもっぱら『讃美歌』(『讃美歌Ⅱ』を含む、後には21世紀にふさわしい新しい『讃美歌21』が出版される)を用いていたからです。「十字架にかかりたる/救い主を見よや/こはなが犯したる 罪のため/ただ信ぜよ ただ信ぜよ/信ずる者はたれも 皆救われん」と歌う『聖歌』424番を聞いて、申し訳ないながら思わずぷっと笑わずにいられませんでした。洗練された歌詞と曲調の『讃美歌』に比べ、何と俗っぽい讃美歌だろうと好きになれませんでした。

 『讃美歌21』には『讃美歌』から詞を口語文に手直ししたりして収録されたものもありますが、新しいタイプの讃美歌が取り入れられて出来上がったのですから、当然再録に漏れたものもあります。私の好きな讃美歌の多くが『讃美歌21』に採録されていないことを知った時、自分が間違いなく昭和の人間だということを悟りました。いや、『讃美歌21』にも惹かれる歌はたくさんあります(385番「花彩る春を」、580番「新しい天と地を見たとき」など)。また、子供たちにも歌いやすく、一緒に歌うのに適したものも多数あるのでとてもよいと思っています。でも、恐らく私以上の年齢の人には『讃美歌』の時折混じる文語的表現の美しさを恋しく思う人は多いに違いありません。

 好きな讃美歌が年齢とともにこれほど変わるのかと、最近は思うようになりました。美しい曲と詞を兼ね備えた讃美歌は一生変わらず歌いたいものですが、そもそも『讃美歌』はまさしくオールタイム・ベストと言ってよい選りすぐりの讃美歌集です。その中で、ひょんなことから美しさという基準をも無化してしまうような懐かしい、そして不思議な讃美歌497番に出会いました。

「あめなる日月(ひつき)はまきさられ、つちなる物みなくずるとも、常世(とこよ)にわたりてすべたもう/主イエスぞ永久(ときわ)にかわりなき。」

「あめつち跡なくくずるとも、主イエスぞ永久(ときわ)にかわりなき。」

「かわりなき、かわりなき、主イエスぞ永久(ときわ)にかわりなき。」

 「あめなる日月」とは天のカレンダーといったところでしょうか、神のご計画が記された巻物が読み広げられては別側に巻き取られて終了していくようなイメージなのですが、これを一言で「まきさられ」と表現しているところがすごすぎると思います。

 次の「つちなる物みなくずるとも」は、まさしく今現在の世界であり、説明は必要ないでしょう。次に来る、最初から最後まで変わらず世界を統べる神についての言及は、私に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:8)を想起させます。

 ここまでで一段落と思ったら、再びダメ押しのように「あめつち跡なくくずるとも」と、世界の崩壊、滅亡の詞が続くので、悲惨さを通り越して思わずのけぞって大笑いしてしまいます。戦争直後の焼け野原を経験された世代は、もしかするとまさしく今、既視感を持って日本の、そして世界の現状を見ているかもしれません。

 さらに続く、「かわりなき、かわりなき」のところを、私は「変わりなし、変わりなし」と歌っていたのですが、ふと気づけば、これは「主イエス『ぞ』永久にかわりな『き』」という、あの古典の授業で習った係り結びではありませんか! 「ぞ・なむ・や・か・こそ・は・も」(係助詞)が出てきたら,「文末」の「活用形」が変わると確かに習いました。「ぞ」の場合は「連体形」か…なるほどと、生まれつき文語文の使い手ではない私は頷きました。「ぞ」の無い2節と3節の詞は確かに「主イエスぞ永久にかわりなし」となっています。普段使っていない話し言葉、書き言葉が自然に分かるということはありません。うん、古典文法、必要でした。

 この讃美歌は曲が軽やかな8分の6拍子でなければ、全く違った歌になっていたのかもしれません。しかし、8分音符3つを1拍とする2拍子系のリズムで歌いながら、絶望感に打ちひしがれて沈み込むことはそもそも無理です。この讃美歌は、崩れゆく世界の現実を突き抜けたような明るい曲調なのです。ひたすら「かわりなき」を繰り返し連ねるこの讃美歌を口ずさむと、ぐんぐん力がわいてきます。そのため、このどこから見ても「昭和な」讃美歌は、にわかにマイ・リバイバルとなりました。この単純な曲と詞の讃美歌を好ましく思う私は、まさしくあの時の叔父・叔母と同じではないかと、少し愕然としました。「永久にかわりなき主イエスを、ただ信ぜよ」という言葉を今は真理と実感する歳になったということでしょう。そうです、信ずる者は誰も皆救われるのです。メロディを味わいながら、「この感じはどこかで・・・」と思った途端ひらめいたのは、沈みゆくタイタニックで演奏された曲、『讃美歌』320番(主よみもとに近づかん)でした。この讃美歌も8分の6拍子、映画では途轍もなく荘厳な雰囲気を醸し出していましたが、悲壮な感じがしないのは、3連符を用いるワルツのようでありながら実は2拍子系のこのリズムのせいでしょう。しかしこれも、静謐のうちに破滅へと沈んでいくゾッとするような凄まじい情景なのです。ああ、このブンチャッチャ、ブンチャッチャのリズムが今日も頭を離れない。


2022年11月4日金曜日

「環境リスク学」

  動物園に行って以来、特に水に関する環境汚染について考えています。身の回りにはプラスチック製品があふれていますし、私のような自炊派でも食材の包装だけでも大変な量のプラごみが出ます。ペットボトルも全く使わないわけにはいきません。。プラごみは紙ごみや生ごみと一緒にプラスチックバッグに詰めて燃えるごみとして出し、ペットボトルは専用の回収場所に分別していますが、例えばレジ袋が風に舞って、あるいはペットボトルが河川に落ちて、池や海に流れ着き、やがて小さく細かくなるとそこに住む生物に多大な被害を与えます。たとえそのようなことに注意を払っていても、家庭で洗濯するだけで衣類からマイクロプラスチックが流れ出て下水にはいるということまでは避けられません。歳とともになお一層、肌触りのいい天然素材(主に木綿)を好んで身につけるようになりましたが、それでも化繊ゼロという生活は無理です。漁具による海の生物への痛ましい被害はよく報道されますが、とりわけ海に関係する生活をしていなくても、海洋汚染について手の白い人はいないはずです。

 現代社会において、人間は生きているだけで自然にとって有害な存在なのですから、あとはどれだけ環境汚染を少なくできるかという選択肢しかありません。何年か前に台所用洗剤をパーム油由来のものにしましたが、これはこれで産地となる熱帯地方の自然破壊になるのですから、いつも後ろめたさを感じていました。意識の高い人は既にやっていることでしょうが、私も徐々に無添加せっけんに変えることにしました。できることはわずかですが、今回動物園で個々の動物とお近づきになった(?)ことで、習慣を変えるきっかけとなりました。

 私は最近「環境リスク学」という言葉に出会いました。これはざっくり言うと、自動車や農薬など大変便利だが環境に何らかの悪影響を否定できないものがあるとすると、どのくらいのリスクがあるかを数値化すれば、自動車なり農薬なりを禁止するかどうかの議論のプラットフォームになります。発がん性があるにしても、「1億人中1人でも発症のリスクがあるなら禁止」とすることは、当事者あるいは社会における利便性や経済的損失を考えれば合理的な判断とは言えないことになるでしょう。経済的な観点だけでなく、地域の違う住人間や、人間と別種の生物間のリスク環境の比較考量においても、この考え方は威力を発揮します。

 もう20年近くも前の本ですが、その名も『環境リスク学 不安の海の羅針盤』(日本評論社2004年、中西準子著)を初めて読み、率直に感銘を覚えました。筆者は東大工学部都市工学科の助手として下水処理問題から始めて、先入観にとらわれずにおかしいと思ったことを調査し、その事実だけを元に次々と環境リスクを数値化していきます。都市工学というのは住民環境と密接にかかわる領域ですので、研究結果如何によっては官僚からの圧力や市民運動からの突き上げをもろに被る学問です。筆者は不屈の姿勢で事実を曲げなかったため、官僚と組んで学生を囲い込んだ教授から虐げられ村八分にされますが、一部始終を公表したところ工学部の学生、院生、職員がストに入り理不尽な処分は撤回されます。この話に象徴されるように、ファクトにこだわりそこに立つことを止めない姿は、その後も同じ方向性の学生、研究者、教授陣、志のある官僚の心を打ち、彼女を支える人はいつも傍に存在しました。

  1990年頃さかんに取り沙汰されたダイオキシン問題では、湖の底の泥層を分析することにより、ダイオキシン汚染の主たる原因がごみ焼却所ではなく、それより二、三十年ほどまえの農薬にあることを突き止め公表したため、市民団体やその農薬の製造企業から激しく非難されたこともありました。公表は机上で作り上げた理論ではなく、農家の納屋からもらい受けた当時の農薬という厳然たる証拠の分析に拠っていたため、「訴訟にする」とまで言っていた企業が逆に謝罪する結果になりました。それほどファクトは強いものでした。

 この方は、『公務員という仕事』(ちくまプリマー新書2020年)を書かれた元厚生労働省の村木厚子さんを彷彿とさせる、不動の信念を持つ研究者です。この方が高潔な人格の持ち主であることは論を待ちませんが、私が圧倒されたのは「まともな正義が通っていた時代が確かにあったのだ」という思いです。かろうじて二十年前まではまだそれがあった。今ならどんな証拠を持ち出しても、「フェイクだ」と言って押し通す輩がほとんどではないでしょうか。そして世間にはどんなに立派で真摯な研究結果を聞いても、胡散臭い目で見てしまうという、「何も信じられない」無気力感が横溢しています。なにしろ、既に故人となりましたが、総理大臣がオリンピック招致に当たって、「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」と言い、「(福島第一原発の)状況はコントロールされている」と、アンダー・コントロール宣言をしてしまう国になったのですから、国民が何を言い出してもコントロールできないのは当然でしょう。言葉が意味を持たなくなった、この取り返しのつかない状況を作り出した罪は本当に重いと思います。私が「ここまで腐ったらもう日本は駄目だな」と思い知ったのは、公文書に関わる一連の事件です。公文書を改竄、廃棄するという行為は公務員、官僚が自らの存在を葬ったも同然の所業で、決してしてはならないことでした。2019年に東大の入試において文Ⅱ(経済学系)合格者の最高点、平均点とも、文Ⅰ(法学系)の合格者のそれを上回ったと聞きましたが、国会答弁をする官僚の情けない姿を見れば、国家のために働くなど馬鹿らしくみな金儲けに流れても仕方ないでしょう。環境リスクから話が逸れてしまいましたが、中西準子さんがいかに傑出した人でも、その周りに「正しいことをしたい、正しい側にいたい」という人がそれなりの数いなければ、歴史の闇に埋もれるしかなかったはずです。三十年前にはまだ一人一人が保身より大切なことを実行できていたのです。

  規範のない社会は何一つ積み上げることができず、実効性のない非現実的な対応がしばらく続いたかと思うと、ほどなく変更されます。教員免許更新制がそのいい例です。学校がブラックな職場となって慢性の教員不足が予想される中、更新研修など受けるわけのない退職教員がどんどん免許を失効していくとなれば、彼らを非常勤講師として確保することができません。ちょっと考えればわかりそうなものなのに、馬鹿馬鹿しいドタバタ劇でした。十年先も見通せない教育行政に国民は翻弄されているのです。環境リスク学を知って、文科省が必要な省庁かどうかのリスク比較もしてほしいものだと思わずにいられません。文科省が存在することのリスクに比べて、文科省がなくなって困ることをあまり思いつかないのは私だけでしょうか。