ここ三、四十年の間、常に日本では精神界のことに関心がもたれてきました。この人間精神への飽くなき探求はほぼアメリカ由来のものであり、恐らくは早くも1960年のヒッチコックの『サイコ』、また1975年の『カッコーの巣の上で』(ジャック・ニコルソン主演)というアメリカ映画によって度肝を抜かれたことによります。その後も追い打ちを掛けるように続々と作られた、1980年、キューブリック監督の『シャイニング』(またしてもジャック・ニコルソン主演)における次第に狂っていく人物像や1981年、ダニエル・キイスのノンフィクション 『24人のビリー・ミリガン』で描かれた解離性同一性障害の人物像、また1991年『羊たちの沈黙』におけるアンソニー・ホプキンスの演じたサイコパス等に戦慄し続けた結果、日本における精神世界への好奇心がますます急速に高まることになったと言ってよいでしょう。
私もこれまでそれなりの関心をもって映画や本に接してきましたが、上記のような耳目を驚かす精神障害はごく稀な事例であって、それは精神科医でも一生に一度出会うかどうかという症例ではないかと思うようになりました。そう考えると、昔から診断のある統合失調症などは別として、日本でここ二十年くらいに突如雨後の筍のように急増した種々の精神疾患に対しては直感的に疑惑の目を向けざるを得ません。
これまでに朧げながら分かってきたことは、
①日本の精神医学会はほぼアメリカ精神医学会をなぞっていること、
②しかしそれが日本では十年(もっとかも知れない)ほども遅れて反映されるらしいこと、
③診断は概ねアメリカ精神医学会の『DSM鑑別診断ハンドブック』により行っているのだが、これが既に第5版ということからも分かるように、頻繁に改定されてきたこと、
④基準に該当する症状がいくつあるかによって診断する方法では、確固たる診断をつけるのは困難であること、
⑤検査という形でかろうじて客観的に障害が測れるのは子供の知的障害と学習障害であるが、置かれた家庭環境を考慮しなければ知能検査を行ってもあまり意味がないこと
⑥日本の医療制度では薬剤の処方以外の治療では診療報酬を上げにくく、自由診療では経営的に成り立たないことが多いこと、
⑦さらに日本では医師の専門領域に関わらず、医師免許があればどんな診療科でも名乗れるため、値段の張る医療機器を必要としない精神科の看板を掲げる医療機関が相当数見受けられること、
などです。
もちろん研鑽を積んで患者のために誠心誠意尽力する精神科医はいますし、また、或る種の発達障害を幼児のうちに発見し向き合うことによって、間違いなくその子のその後の人生を豊かなものにしている医師もいます。こういう治療や対処は絶対に必要なもので、その仕事は日々のたゆまぬ研究へのキャッチアップと献身に基礎づけられています。その上で敢えて言うなら、その他の数多ある障害(例えば、うつ病、強迫性障害、双極性障害[躁うつ病]、パーソナリティー障害、パニック障害・不安障害etc.)についてどう考えたらいいか戸惑っています。うつ病がメランコリーと呼ばれていた時代からわずか60年ほどでその人数が1000倍となったと聞く時、特に日本で「うつは心の風邪と言われ始めた時期と」SSRI系の抗うつ剤が爆発的に売れ出したこととは無関係ではないと思う時、また「子供」という言葉が「子ども」に変えられていった時期と精神医療の領域で子供をめぐる事情がかまびすしくなったこともこの流れに無関係ではないと思う時、非常な疑念と困惑を覚えます。実際、子供のADHD(注意欠如・多動性障害)の診断は精神科医でも過半は過剰診断と認めざるを得ないようで、それくらい診断をつけるのは難しいのです。
同様に、以前は広汎性発達障害と言っていた名称が自閉症スペクトラムと呼ばれるようになったことからも分かるように、精神界の疾患や障害は黒白の判定をつけられるものというより、その症状を示す傾向の強さの度合いと考えられる流れになっています。明治期以降の文豪の中にも精神医療に関わる症状のある人が何人も思い浮かびますし、また誰でも胸に手を当てれば、自分にも何らかの障害があるのではないかと思うはずです。問題は社会生活が支障のない範囲で送れるかどうかでしょう。
以前、子供がうつ病になられた方が「あんなもんは医者にだって治せないんだよ」と言うのを聞いたことがあります。その通りでしょう。ましてや或る精神障害の潜在的罹患者が人口の3割あるいは5割を超えるなどという場合は、もはやそれを「精神障害」と呼んで済ませられるのかと不信の念が募ります。持って生まれた気質だけでは説明がつかず、周囲の環境、大きく言えば社会状況を変えない限り、もうどうにもならないところまで来ていると言えるのではないでしょうか。多くの人があまりに息苦しい生活の中で病んでおり、中には心身の不具合に精神科の病名が付いたことで救われる人もいるという倒錯した事態も起きています。しかし、このような「癒しとしての病」に頼ることは一時的にはよくても、長い目で見れば決して幸せにつながらないことは明らかです。
ふと思い立ってウィキペディアで「精神障害」の項を見てみました。そしてまず大笑いし、それから少し背筋が寒くなりました。そこには驚くべき記述がありました。フェイクではないと信じるならば、こうあります。
1994年、世界精神医学会のノーマン・サルトリウス会長は「精神科医が精神病者を治療できると考えられた時代は終わりました。今後、精神病者は病気と共に生きる術を学ばねばならないでしょう」と述べている。・・・・
1995年、アメリカ国立精神衛生研究所のレックス・コウドリー代行所長は「私たちは(精神障害の)原因を知りません。私たちは未だにこれらの病気を『治療する』手段を持っていません」と述べている。・・・
2009年、アメリカ国立精神衛生研究所のトーマス・インセル所長は、30年前に精神科でレジデントとして学んだ多くのものが、科学的研究によって完全に間違っていると証明され、捨て去られているため、「おそらく、30年後の私たちの後任は、今日私たちが信じている多くのものを痛ましい認識だと顧みることになるでしょう」と述べている。・・・
こんな精神医療界の頂点にいる方々がこのような真摯な認識に立って正直な告白をされていることに敬意を表したい。こんなことならもっと早く見ればよかった。恐ろしいのはこれが30年前の言葉であり、最後の13年前の予言めいた発言によると、今現在の認識においても「当てになるものは何一つない」と言っているに等しいことに愕然とします。
ただ、精神の安定を保つためには幼少期の親との愛情関係が成長のあらゆる段階で決定的に重要であること、人間の身体が対処可能な範囲を超えてしまった社会をなんとかしない限り、心身を病む人は増え続けるだろうということは素人でも分かります。先ほど精神に関わる障害の判定は社会生活に支障があるかどうかだと述べましたが、それはまともな社会であってこそです。現在の社会の中で精神に関わる症状を発症する人が急増しているとしたら、病んでいるのはどちらなのか。昔見た映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の中に、パラダイス座を愛する町の人々とは別に、街の広場を「俺の広場だ」と認識している気の触れた男が出てきます。主筋とは全く関係ないシーンなのですが、その男に向ける町の人たちの眼差しが優しかったことを、なぜだか印象深く今も覚えています。ああいう社会はもう永久に失われてしまったのでしょうか。とても寂しいです。