2022年10月31日月曜日

「普通の生活が戻ってきた」

  よい季節になりました。暑い間はパンを焼くのをやめていましたが、先日は久しぶりにシナモンロールパンを焼きました。電気使用量を抑えるため、焼きの部分をオーブンではなくフライパンで行いました。とてもよく出来上がって時計を見るとまだ9時。思い立ってカメラをリュックに放り込み、動物園に行くことにしました。おっと焼き立てパンとコーヒーの保温ポットも携行しなくちゃ。

 コロナ禍の間、なんだか無性に動物園に行きたくなったのですが、予約が必要となると、行けるような体調かどうかは当日にならないと分からないので、腰が引けていました。ようやくその機が到来したのです。秋晴れの絶好の日、体調もすこぶるよく、池之端から散歩がてら上野恩賜公園を歩き、正門から入場。知らずに行ったのですが、パンダが来て50周年とのことで、記念の催しが開催されているようでした。「50分待ち」に並ぶことなく、パンダはあっさり諦め、水の中でご機嫌のホッキョクグマを堪能。他に東園ではサル山、トラ、ゴリラは外せません。望遠機能のカメラの威力はすばらしく、おかげでまるで手の届くところにいるかのように良く見えて、思わず「この子たち、毎日何考えているんだろう」と不思議な気持ちが湧いてきます。また、これまであまり関心のなかった鳥類の観察が実に面白く、いろいろな鳥たちが羽を広げたり閉じたりする様子を楽しめました。ゾウが外に出ていなかったことだけが心残りでした。最強でありながら優しいゾウは動物の鏡です。

 西園に移動し、ここでもパンダの森はパス。でも、アフリカの森には見どころが満載で、キリン、サイ、カバはジャングル大帝の世界です。強さという点で相当ランクは上、サイは見るからに獰猛だし、カバは水中もOKだから怒らせたら大変なことになりそうです。最後にレッサーパンダを見て満足して退園しました。

  あ、そう言えばハシビロコウを見逃しました。きっと気配を消してたんだな・・・。動物園に行くといつもつくづく感じ入るのは、造化の妙としか言えない生物の多様性で、「創造主がなさることは完全で、誠に遺漏がない」と素直に思えるのです。1時半ころ弁天門から退園する時には、これから入園しようとする人の列が長く続いていました。皆こういう日を待ちかねていたのでしょう。バス通りに抜け、都バスに揺られるうち、「コロナは終わったんだな」と実感しました。


2022年10月24日月曜日

「精神界と精神科医」

  ここ三、四十年の間、常に日本では精神界のことに関心がもたれてきました。この人間精神への飽くなき探求はほぼアメリカ由来のものであり、恐らくは早くも1960年のヒッチコックの『サイコ』、また1975年の『カッコーの巣の上で』(ジャック・ニコルソン主演)というアメリカ映画によって度肝を抜かれたことによります。その後も追い打ちを掛けるように続々と作られた、1980年、キューブリック監督の『シャイニング』(またしてもジャック・ニコルソン主演)における次第に狂っていく人物像や1981年、ダニエル・キイスのノンフィクション 『24人のビリー・ミリガン』で描かれた解離性同一性障害の人物像、また1991年『羊たちの沈黙』におけるアンソニー・ホプキンスの演じたサイコパス等に戦慄し続けた結果、日本における精神世界への好奇心がますます急速に高まることになったと言ってよいでしょう。

 私もこれまでそれなりの関心をもって映画や本に接してきましたが、上記のような耳目を驚かす精神障害はごく稀な事例であって、それは精神科医でも一生に一度出会うかどうかという症例ではないかと思うようになりました。そう考えると、昔から診断のある統合失調症などは別として、日本でここ二十年くらいに突如雨後の筍のように急増した種々の精神疾患に対しては直感的に疑惑の目を向けざるを得ません。

 これまでに朧げながら分かってきたことは、

①日本の精神医学会はほぼアメリカ精神医学会をなぞっていること、

②しかしそれが日本では十年(もっとかも知れない)ほども遅れて反映されるらしいこと、

③診断は概ねアメリカ精神医学会の『DSM鑑別診断ハンドブック』により行っているのだが、これが既に第5版ということからも分かるように、頻繁に改定されてきたこと、

④基準に該当する症状がいくつあるかによって診断する方法では、確固たる診断をつけるのは困難であること、

⑤検査という形でかろうじて客観的に障害が測れるのは子供の知的障害と学習障害であるが、置かれた家庭環境を考慮しなければ知能検査を行ってもあまり意味がないこと

⑥日本の医療制度では薬剤の処方以外の治療では診療報酬を上げにくく、自由診療では経営的に成り立たないことが多いこと、

⑦さらに日本では医師の専門領域に関わらず、医師免許があればどんな診療科でも名乗れるため、値段の張る医療機器を必要としない精神科の看板を掲げる医療機関が相当数見受けられること、

などです。

 もちろん研鑽を積んで患者のために誠心誠意尽力する精神科医はいますし、また、或る種の発達障害を幼児のうちに発見し向き合うことによって、間違いなくその子のその後の人生を豊かなものにしている医師もいます。こういう治療や対処は絶対に必要なもので、その仕事は日々のたゆまぬ研究へのキャッチアップと献身に基礎づけられています。その上で敢えて言うなら、その他の数多ある障害(例えば、うつ病、強迫性障害、双極性障害[躁うつ病]、パーソナリティー障害、パニック障害・不安障害etc.)についてどう考えたらいいか戸惑っています。うつ病がメランコリーと呼ばれていた時代からわずか60年ほどでその人数が1000倍となったと聞く時、特に日本で「うつは心の風邪と言われ始めた時期と」SSRI系の抗うつ剤が爆発的に売れ出したこととは無関係ではないと思う時、また「子供」という言葉が「子ども」に変えられていった時期と精神医療の領域で子供をめぐる事情がかまびすしくなったこともこの流れに無関係ではないと思う時、非常な疑念と困惑を覚えます。実際、子供のADHD(注意欠如・多動性障害)の診断は精神科医でも過半は過剰診断と認めざるを得ないようで、それくらい診断をつけるのは難しいのです。

 同様に、以前は広汎性発達障害と言っていた名称が自閉症スペクトラムと呼ばれるようになったことからも分かるように、精神界の疾患や障害は黒白の判定をつけられるものというより、その症状を示す傾向の強さの度合いと考えられる流れになっています。明治期以降の文豪の中にも精神医療に関わる症状のある人が何人も思い浮かびますし、また誰でも胸に手を当てれば、自分にも何らかの障害があるのではないかと思うはずです。問題は社会生活が支障のない範囲で送れるかどうかでしょう。

 以前、子供がうつ病になられた方が「あんなもんは医者にだって治せないんだよ」と言うのを聞いたことがあります。その通りでしょう。ましてや或る精神障害の潜在的罹患者が人口の3割あるいは5割を超えるなどという場合は、もはやそれを「精神障害」と呼んで済ませられるのかと不信の念が募ります。持って生まれた気質だけでは説明がつかず、周囲の環境、大きく言えば社会状況を変えない限り、もうどうにもならないところまで来ていると言えるのではないでしょうか。多くの人があまりに息苦しい生活の中で病んでおり、中には心身の不具合に精神科の病名が付いたことで救われる人もいるという倒錯した事態も起きています。しかし、このような「癒しとしての病」に頼ることは一時的にはよくても、長い目で見れば決して幸せにつながらないことは明らかです。

 ふと思い立ってウィキペディアで「精神障害」の項を見てみました。そしてまず大笑いし、それから少し背筋が寒くなりました。そこには驚くべき記述がありました。フェイクではないと信じるならば、こうあります。

1994年、世界精神医学会のノーマン・サルトリウス会長は「精神科医が精神病者を治療できると考えられた時代は終わりました。今後、精神病者は病気と共に生きる術を学ばねばならないでしょう」と述べている。・・・・

1995年、アメリカ国立精神衛生研究所のレックス・コウドリー代行所長は「私たちは(精神障害の)原因を知りません。私たちは未だにこれらの病気を『治療する』手段を持っていません」と述べている。・・・

2009年、アメリカ国立精神衛生研究所のトーマス・インセル所長は、30年前に精神科でレジデントとして学んだ多くのものが、科学的研究によって完全に間違っていると証明され、捨て去られているため、「おそらく、30年後の私たちの後任は、今日私たちが信じている多くのものを痛ましい認識だと顧みることになるでしょう」と述べている。・・・

 こんな精神医療界の頂点にいる方々がこのような真摯な認識に立って正直な告白をされていることに敬意を表したい。こんなことならもっと早く見ればよかった。恐ろしいのはこれが30年前の言葉であり、最後の13年前の予言めいた発言によると、今現在の認識においても「当てになるものは何一つない」と言っているに等しいことに愕然とします。

 ただ、精神の安定を保つためには幼少期の親との愛情関係が成長のあらゆる段階で決定的に重要であること、人間の身体が対処可能な範囲を超えてしまった社会をなんとかしない限り、心身を病む人は増え続けるだろうということは素人でも分かります。先ほど精神に関わる障害の判定は社会生活に支障があるかどうかだと述べましたが、それはまともな社会であってこそです。現在の社会の中で精神に関わる症状を発症する人が急増しているとしたら、病んでいるのはどちらなのか。昔見た映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の中に、パラダイス座を愛する町の人々とは別に、街の広場を「俺の広場だ」と認識している気の触れた男が出てきます。主筋とは全く関係ないシーンなのですが、その男に向ける町の人たちの眼差しが優しかったことを、なぜだか印象深く今も覚えています。ああいう社会はもう永久に失われてしまったのでしょうか。とても寂しいです。


2022年10月17日月曜日

「患者の立場」

  患者と医者の関係で一番幸せなひと時は、例えば骨折などで最終確認に行き、「治ってます。もう来なくていいです」と言われる時でしょう。逆に自分の病状がうまく伝わらない、体調の捉え方が違うという場合は、その治療をめぐって患者は苦慮することになります。

 先日の診察で、骨粗鬆症薬服用後の顛末を医者に話しましたが、やはり医者は他の可能性(コロナ罹患)等を口にし、薬害を認めることはありませんでした。医者の立場として、その時の患者の状態を医学的に検査しなければ診断できないのはわかりますが、もうその時は過ぎています。やはりあの時救急車を呼んで大学病院に行くべきだったかとも考えましたが、あの時の状態を思うとそれは体の負担を増したはずで、私は医学の発展のために生きているわけではありません。数十年自分の体で生きてきて、あれが薬害であることは私には自明のことです。

 「あの薬はごく一般的に使用されています」との言葉で分かるように、医者は一般的な患者を念頭に治療しているのです。しかし、特異体質患者も少ないながら必ず一定数います。私は「子供の頃から化学物質に滅法弱かった」こと、「服用後の夕方から症状が始まった」こと、「骨が内側から破壊されるような痛みだった」ことを話しましたが、他の可能性を医学的につぶして確かめない限り、医者にとって患者の体感など当てにならないもののようです。

 ただ、「どのくらいで良くなりましたか」と聞かれ、「3週間です」と答えた時はさすがに医者もびっくりしていました。これがコロナであるはずがありません。体感的に毎日5%くらいずつ骨の痛みが引いていく感じでしたが、タオルが絞れるようになったのはやっと3週間目、こうしてみると計算が合います。「カルシウムは食事で摂るよう、より一層頑張ります」と申し出たところ、どうもそういう問題ではないらしい。医者が「ちゃんと調べてみないと使える薬が限られてしまう」と言うのを聞き、「この人はまだ薬を使う気なのか」と恐ろしくなりました。取り敢えずビタミンDに戻してもらい、この日は這う這うの体で退散。唯一よかったのは全般的な検査の値がこのところ改善して落ち着いていることでした。なんだか医者とのやり取りに疲れて帰宅、ぐったりです。

 医者の治療のいいところは受け入れ、自分が納得できないものは拒否、そして日頃から食事、運動、睡眠の管理をしっかりすること、これに尽きます。実際、以前医者が鼻で笑った鉄卵の白湯はよい結果を示しており、小魚や牛乳も強化しているのできっとよい結果につながるでしょう。受診科がどこの病院にでもあるわけではない私のような患者は、病院を簡単に変えることができません。医者に新たな治療を加えられぬよう、全力で日常生活を送るというのも変な話ですが、結局自分の命は自分で守るしかありません。


2022年10月10日月曜日

「お墓のこと」

  先日、故郷の教会で、家のお墓を「墓じまい」して、教会の共同のお墓に骨を移したいとお考えの方がいると聞きました。教会のお墓は歩いて20分ほどの丘の中腹にあり、敷地内に「神の家族」と書かれた共同墓地があり、そのほかに信徒の家の個別墓石のお墓がいくつかあります。子供が遠方に在住の場合、毎年墓参りにくるのは大変ですから、墓じまいをしたいとの申し出があったのでしょう。

 私の家のお墓もここにあり、最近はなかなか丘を上って墓参りができない状態でしたので、「うちもそうしたい」と思いました。帰って兄に話すと、意外にも兄は何度も墓参りしているとのこと。(急に低姿勢になる私・・・)私が月に一度の帰省とはいえ、なかなか予定が合わないのでこれまで各自別々に墓参りをしてきたのです。兄もゆくゆくは墓じまいして父母らのお骨を「神の家族」に移さなければと思っており、二人で話し合いを持ちました。

 家のお墓は母が亡くなった二十年前に父が造ったものですが、その後私の連れ合いが分骨され、また父自身も2014年に召されました。結局、十年間は父のお骨をそっとしておき、その後だんだんに考えていこうということになりました。一番よかったのは11月の召天者記念礼拝を前に、兄とお墓の掃除に行って来られたことです。花を供え、お祈りをして帰ってきました。兄と墓参りに行けたのは十数年ぶりのことですから、この日は本当に感謝でした。


2022年10月3日月曜日

「秋日和の障子張り」

  今回の帰省は秋晴れに恵まれ、これ以上ない清々しい毎日を送れました。俄然やる気が出て、ずっと気になっていた和室の障子張りに着手。ここ十年は貼り替えておらず、南面全部障子のため4枚あり、小さな天井窓も含めると8枚となり、手順を想像しただけで疲れてなかなか手が出せずにいたのです。

 前回の茶の間の障子の張替えが頭にあり、2日間見込んでとにかく1枚ずつやるのが鉄則です。作業は前日夕方に「見本となるサイズの型紙を作る」というところから始まりました。上にスライドさせる雪見部分は通常の大きさより長さが短く、それぞれ3枚ずつで1枚の障子が完成します。天井窓の方はそもそも高さが違うので全く別の型紙が必要です。しかしいったん型紙ができると、それに合わせて巻物状になった障子紙を切っていくのは簡単です。必要分のそれぞれのパーツサイズを切るところまで前日作業で終えました。

 翌日は障子を1枚ずつ取り外し、そのまま廊下に移動して張り替え。のりの量が大事なのは身に染みており、結局これは指の感覚で確かめるのが一番確実でした。あとは下段から上段に淡々と貼っていくだけ。1枚終わったら嵌め戻して、次、また次…と思った以上に順調に進みました。無心の境地で作業し、家内制手工業の奥義を体得したと感慨もひとしおでした。やり終えた時の気分のよさといったらなかった。いや、実にいい精神療法になりました。次が十年後となると、せっかく作った型紙をまた使う機会はあるのでしょうか。