2022年9月26日月曜日

「往復書簡」

  発端は1~2年に一度ほど連絡のある学生時代の同級生からのメールでした。「更新手続きをしなければ失効」となっていた教員免許が更新のための研修無しで突如復活したという話です。そう言えば聞いたような気がする・・・。運転免許も返納して自分には免許や資格は一切なくなったと、一抹の寂しさを感じていたので、今後使うことのない免許ですがちょっとうれしく思いました。もっともそれは教員の負担軽減のためではなく、」教員=ブラックな職場」となってしまったため、なり手がいなくなった現状に泡を食ってその場しのぎの対応をしただけにすぎないでしょう。つい十数年前の話なのに、「あのドタバタ騒ぎは何だったんだ」と笑うしかなく、所詮人の言葉は「風に吹き飛ばされるもみ殻のよう」と言わざるを得ません。

 普段は2、3回のやりとりで終わるメールが今回は終わらない。そもそも学生時代からの知り合いというのは遠慮が要らず気安いので、来るメールに返信しているうち何か卓球のようになってきました。相手が打ち込んでくる球をこちらもガンガン打ち返す。近況から健康、仕事、教育、社会全般の多岐にわたる話になり、知り得る限り、考えの及ぶ限りで返信していると頭の体操になります。

 社会の閉塞感に関してのやりとりで、直接的な言葉ではなく言外になんとなく伝わってきたこととして、2つ考えたことがあります。これまで私は「日本の女性は本当に大変」と思っていてそれはその通りなのですが、学校を出た後、仕事、結婚、家事、出産・子育て、介護などそれぞれの時点で選択肢があるということを、あまりメリットとして考えたことが無かったということに気づきました。女性は葛藤しながらも、働かない選択も含めて働き方を決定でき、その意味では女の人生は多様です。しかし、男は学校を出たら40年以上働くという選択肢しか、今の日本にはないようで、仕事に就いて「やってみたら何とか続けられた」というのではなく、「~しなければならない」となると、これはこれで息苦しくキツイだろうなという視点が私には欠けていたなと思いました。この高度成長期に築かれた強固な規範意識はすでに崩れつつありますが、今後大きく変わっていかざるを得ないでしょう。

 もう一つ気づいたのは、SNS流行りの時代に私がそういったことに関心がもてない理由の一つは、自分には承認欲求がまるで無いからだということです。承認されるべき人には十分承認されており(多くがもう天国にいます)、何より神様に知られているので、それ以上の承認はないのです。そういうことだったのだなあと納得しました。

 今は読書三昧できる至福の時、人生最後に与えられた神様からの恩寵を感じています。同世代からのメールをきっかけに、考える視点やヒントを与えられ、様々な課題を意識しながら、毎日少しずつ学んでいきたいと改めて思いました。

 


2022年9月21日水曜日

「現代日本の介護事情」

  ずっと以前、ドイツを旅していた時、コンディトライ(ケーキ屋)で老年の紳士や婦人が一人(または少人数)で、優雅にお茶している光景をよく見ました。養老院のような施設も昔から街中にあり、お年寄りでも歩いてお気に入りのお店で過ごせるのは、とてもいいなと思っていました。人の寿命が以前より大幅に伸び、家族が老親の介護をすることが現実的に難しくなり、老人施設で集住して介護するという体制への転換が不可避となりました。一足先に介護保険を導入したドイツの制度を日本は参考にしたはずですが、2000年の導入以来、日本の介護政策は揺れに揺れてきたように見えます。

 以前はべらぼうに高額な有料老人ホームか低額の特別養護老人ホームしかなく、前者に入れる人は限られていますから、団塊の世代の高齢化に伴い特養が不足するのは明らかでした。しかし政府は支出の増大を抑えるため、金食い虫の特養を増設することを止め、老人福祉施設事業を市場に投げ出す方針に転換しました。これを金儲けの好機と見た企業が次々に参入し、様々な痕跡を残して消えたところが数多くありました。介護事業が企業の経済論理に合わなかったのです。一人一人状況や体調の違う利用者に対応するのは非常に困難であり、利用者、介護者双方に百人百様の課題があります。良心的な介護者ほど去っていく現場があるという実情もあり、利益を出せずに撤退する事業者が絶えません。一方、利用者の介護支援限度額全てを囲い込んで、利用施設で使わせることにより利益を上げる事業者もいて、財政支出を削減するという国の目論見は外れました。今はケアマネージャーに圧力をかけて、ケアプランの縮小に動いているようです。

 もともと集団生活は無理だなと諦めている私にはあまり関係が無いのですが、今の介護の現状にはため息しか出ません。90歳を過ぎても、一人でかくしゃくとした自立生活を自宅で送っていたドイツの義母の姿は理想の老後でした。日本でも「歩けなくなっても腕で匍匐前進し、トイレに行けるうちは在宅で過ごす」と言っているツワモノもいるようです。いや本当に、このくらいの負けん気がないととても自立した老後は送れないと思います。「女は35歳から老後を考える」と言われます。さすがに私はそれほど早くはなかったものの、この問題は相当考えてきました。とにかくギリギリまで在宅で過ごしたい。これに尽きます。さ、今日も公園に行ってウォーキング、実践あるのみです。


2022年9月14日水曜日

「広告のない生活」

  テレビを聞かない生活になって気分良く過ごしています。以前は朝の情報番組を聞くことがありましたが、CMが多すぎてこれもやめました。簡潔なニュースと天気予報ならラジオがよろしい。天気だけならネットですぐさまチェックできます。インターネットは調べ物以外使いませんが、疑いながら短時間使うには良いメディアだと思います。テレビの場合、流される情報の大部分が不要であり、知らずにいて困るものはありません。テレビのない生活はなんと清々しく、晴れ晴れとした心持ちをもたらしてくれることでしょうか。

 広告業界はテレビからネットへとその重心を移しつつありますが、ネットも短時間しか利用しないとなれば、広告に触れる機会はぐっと減ります。外出時に目にするものは高が知れており、第一よほどその気で見ようとしない限り、私には見えません。残るは玄関のメールボックスです。私のメールボックスには「広告は入れないでください」旨の表示があるので、設備関係のちらしがたまに入る以外はほぼ皆無ですが、最近厚手で立派な二つ折りダイレクトメールが頻繁に入ることに気づきました。どれも新築マンションの分譲など不動産に関わるもので、よほど売れないのだなと思います。というより、日本の空き家が一千万戸とも言われる中でどうして建て続けているのかがわからない。今後持ち主が辿れず朽ちていく空き家の崩壊をどうするつもりなのでしょうか。今は持ち主がわかっている住居でも、手入れされずに年月を重ねているものもあり、その後のことには何の手も打たれていないのです。これまでに当然なされるべきだった法改正を今するしかないはずですが、長年の利権がそれを妨げています。最近の頻繁な不動産広告からそこはかとない前兆を感じ、このところの都心不動産ミニバブルがいよいよ弾けるのかと想像しています。そこに住んで暮らしている人には全く関係のないことですが、投資や投機的目的で不動産を買っている人は大変でしょう。持ち主が海外在住で集合住宅の管理や修繕に関心が無いといったケースは、さらに問題が深刻かもしれません。

 多くの人がそうだと思いますが、日本では日々の暮らしで「もう欲しいものが無い」という充足した状態にあります。広告業界はこれを何とかするために、古いものを捨てさせ、周囲を気にさせ、本来無い欲望を掻き立てようとしますが、広告のない生活では自分で「こんなものがあったらいいな」という形でしか欲しいものを思いつきません。そして大抵のものやサービスはネット上で見つけることができます。これなら検討する時間も十分あり、「やっぱりやめとこう」となっても、「試しにやってみるか」になっても後悔は少ないでしょう。最近見つけたのは衣服のコピーオーダーサービスと、ロボット犬。前者は気に入った服のそっくりさんを作ってくれるサービスで、お気に入りばかり着てしまう自分は頭の片隅にこのサービスをメモしました。後者はアイボよりカジュアルなAIロボットで認知症対策などにも用いられているようです。前回寝込んだ時、「生き物飼ってなくてよかった」とベッドで思いましたが、ついりくを思い出してしまいます。「認知症になるまではこれに手を出しちゃダメ」と自分を戒め、生き物は命があるから貴いのだと自分に言い聞かせました。AIはディープ・ラーニングでどれほど進化していこうと、生き物ではないでしょう。父が「りくにはりくの考えがあるんだから」といつも言っていましたが、その通りです。私が寝込んでいるような時は何度も様子を見に来て、静かにそばに伏せていましたっけ。お利口さんの子でした。命ははかないから貴いのです。


2022年9月8日木曜日

「危機の到来にささやかな抵抗を」

 このところ、社会、産業、経済、金融、医療、政治、教育、国際、環境など広範囲にかかわる本を乱読しています。ダチョウは危険が近づくと土に頭を突っ込むと言われていますが、現在自分が置かれている状況の肌感覚と重ねて、ダチョウの気持ちが分かる気がします。以前は自分が生きている間にそこまで破滅的なことは起きないだろうと高を括っていたのですが、今はそう思えなくなりました。強欲資本主義が跋扈している世界の荒廃は著しく、奴隷状態に置かれる人々の経済はとっくに破綻しています。「地球の寿命は資本主義の寿命ほど長くはなさそうだ」という学者もあり、そうなっても不思議はないと納得します。

 どの地域の、あるいはどの分野で崩壊が始まろうと、瞬く間に世界に波及する災厄になるでしょうが、それとは別に日本は固有の巨大な困難をいくつも抱えています。私は市井の心ある方々がそれぞれの場でその破れを繕うために懸命に尽力されていることを知らされ、その働きを多とするものです。しかし、全体を見渡して国が整えなければならない案件の多くが長年にわたって破綻状態であるのに、それがほぼ全て「よくぞここまでその場しのぎの姑息な対応で問題を先送りしてきたものだ」という現状であることに暗澹たる思いです。ここまで来るとどんなに優れた人材が取り組んでも問題解決は無理だろうと思わされます。それに、現在の政治家は強欲資本主義者に雇われてその意図通りに政(まつりごと)を行い、私腹を肥やしているに過ぎないのですから、悪い方向に変更されることはあってもよい方向への改革とならないのは明らかです。

 それでは一般庶民にできることはないのかと言うと、ほぼ無いのですが、「あんたらの思い通りには動かない」と決心することはできます。具体的には、①「本当のこと、まっとうなことを言っているのは誰か」を見抜くこと、②騙しの言葉を吐く人に対し、「こういうことを述べることによって、この人は何をしようとしているのか」を見抜くこと、③流行に乗らないこと、④できる限りデジタルから遠ざかること、⑤メディアやSNSを信じないこと、あるいはそこで語られていないことを見抜くこと、⑥外部からの働きかけに対しては何事も遅め遅めに対応すること、⑦学びをやめないこと、などでしょう。時速60キロで走れるダチョウは危険に際し頭を土に突っ込んでいるのではありません。体を伏せて首を土に擦り付けて状況を把握しているのです。富裕層と違い時速60キロで海外に逃げることができない庶民でも、そのくらいのことはできるはずです。