最近読むのはほぼ旧約聖書です。聖典と思うとなかなか手が出ませんが、観点を変えて書物の一つとして読んだらこんな興味深いものはありません。不思議な話、残酷な話、相互に矛盾した話、死んでも死に切れないような不本意な話が残ってしまった登場人物もたくさんいます。誰かの権威づけのために書かれたものではないので、歴史上の偉大な人物もただの人、悪行が白日の下にさらされたり、弱さをさらけ出して神により頼んで救われたりといった話が繰り返し出てきて、人間の愚かさ加減が身にしみます。同じような話に見えても民族の歴史として余すところなく書き記さねばならないという恐ろしいまでの執念・・・・。
偶然かもしれませんが 「イザヤ書を読む」を書いた途端、イスラエルからの大量アクセスがあったのでうっかりしたことは書けません。(まずいことは書いてないと思うけど・・・。)勝手な解釈も危険。その上で敢えていうなら、神は初めから弱く邪悪でダメな人間すべてを対象に救いを目指されてきたのだということしかありません。疑問に思うことを調べ始めるときりがなく、古代ユダヤ教の慣習を知らないと理解できないことも多いですが、「ふ~む、神様はこういう手を使われたか。」と自分なりに納得できることもあります。
私の場合は読むと言ってもほぼ聞くのであり、データとして手に入るのは著作権の切れた口語訳です。新共同訳と読み比べてそれぞれ一長一短あるものの、口語訳も悪くないなと感じます。素人が言うのもなんですが、新共同訳にはちょっとありがた迷訳的なところがないでしょうか。今わからない疑問点は祭司や祭儀に関すること、預言者に関することなどで、些末なことかもしれませんが気になりだすと止まりません。おかげで読書は遅々として進まず、頭で理解するだけでも相当時間がかかりそうです。体感的にわかるにはきっと一生かかるでしょう。不謹慎化もしれませんが当分楽しんで聖書が読めそうです。