忙しい十月でした。頼まれた務めがあり、頼まれてない務めがあり、人と会う用事があり、予定外の通院があり、最後にバザーもありました。バザーの終了後に頼まれた名物のフルーツケーキを友人に手渡す約束をしていたので、はからずもハロウィンの渋谷の夕暮れを楽しむことになりました。いるいる、仮装の若者が。正統派魔女やモンスターもいましたが、アラビアンナイト風、チャイナドレス風、アイドルのステージ衣装風等、おおっぴらに仮装ができる日に成り果てたようです。モアイ像側は大丈夫でしたがハチ公側は人が多すぎてどうにもならない。警察車両も数台出てました。一番かわいかったのはティラノサウルスの着ぐるみかな。通行人と仲良く写真におさまったり、「襲ってきて!」と命令されて動画に撮られたり。これってハロウィンと関係あるかしら。絶対に目立ちたくないと思っている人間にとって、この変身願望の表出による非日常的仮装をしたい気持ちはどうしてもわかりません。目立ちたい人がこんなに多いとは驚くばかりです。
私にとってはゆっくり家に一日いられるのは至福の時間です。読書→調べもの→書きもの→読書→調べもの→書きもの・・・を繰り返すのですが、目よりも耳でするので時間がかかり、集中しているとかなり消耗します。やっている最中にセールスの電話が来たりするとムッとして「今、忙しいんで。」と言って切る。傍から見れば忙しいはずないんですけど主観的には全く忙しい毎日なのです。以前十代の若者の討論会で高校生が同じ年齢で不登校中の子に自分が学校に行っている間どんなことをしているのか尋ねていましたが、これは自分も学校休んでみないとわからないことだろうなあと、今は思います。たぶんしばらくは茫然とするにしても、それからはやりたいことに没頭しているんじゃないでしょうか。
2016年10月31日月曜日
2016年10月22日土曜日
「紅春 95」
りくは10歳になりました。なんとかここまで無事にこれて感無量です。この間にいろいろなことがありました。柴犬の繁殖場からまだ2カ月半だったりくを一緒に連れてきたヘルベルトは亡くなり、厳しそうに見えてその実りくを猫かわいがりしていた父もこの世を去りました。りくは年々さびしがりになってきた気がします。
東京に帰る日が近づくとそれまでりくに振り回されて結構大変だったのに、あと三日、あと二日しかない・・・と私も少しさびしくなります。帰る日の二日前、遊べるのは明日だけだなあと思いつつ、「姉ちゃん、あさって帰るからね。また来るから心配しないでいなさい。あしたはうんと遊ぼうね。」と言って寝た晩のことです。夜中に起きて、りくが定位置にいないなと気づいたのですが、翌日二階に行っていたことがわかりました。兄の話では「昨夜は変だった」とのこと。いつもは二階にいるときでも襖を隔てて向こうの部屋にいるのですが、昨夜は部屋にやってきてべったりくっついていたというのです。まさか私の言葉が影響したとも思えませんが、「帰る」とか「東京」という単語は理解できているのかもしれません。りくいにはりくの考えがあってその時々に行動しています。犬と言えどすごいことです。それにしても繊細な柴男には不用意なことは言えません。
東京に帰る日が近づくとそれまでりくに振り回されて結構大変だったのに、あと三日、あと二日しかない・・・と私も少しさびしくなります。帰る日の二日前、遊べるのは明日だけだなあと思いつつ、「姉ちゃん、あさって帰るからね。また来るから心配しないでいなさい。あしたはうんと遊ぼうね。」と言って寝た晩のことです。夜中に起きて、りくが定位置にいないなと気づいたのですが、翌日二階に行っていたことがわかりました。兄の話では「昨夜は変だった」とのこと。いつもは二階にいるときでも襖を隔てて向こうの部屋にいるのですが、昨夜は部屋にやってきてべったりくっついていたというのです。まさか私の言葉が影響したとも思えませんが、「帰る」とか「東京」という単語は理解できているのかもしれません。りくいにはりくの考えがあってその時々に行動しています。犬と言えどすごいことです。それにしても繊細な柴男には不用意なことは言えません。
2016年10月18日火曜日
「苦手なこといろいろ」
このところ不得手だがやらねばならないことや苦手な頼まれ事が続いていました。福島教会ホームページの引っ越しはずっと懸案でしたがとりあえずできました。旧ホームページに新しいURLを告知してありそこからワンクリックで移動できるし、そのURLがあと一年ほど使えるのでその間に認知してもらえるだろうと期待しています。いつもその時限りの集中力と勢いで乗り切っているのでどうやったのかもう思い出せずスキルが積みあがるということはありません。きっともう二度とできないでしょう。
また先日は信徒伝道日なる行事で、以前在籍していた教会にて福島教会の会堂再建のお話をしてきました。私が在籍していた頃もそういう日がありましたが、まさか一般信徒が日曜に講壇で話しているとは思いもしませんでした。他の教会ではまずないことでしょうし、私もてっきり神学校を出られた方とか長老さんといった立派な方々が呼ばれているのだと思っていたのです。平信徒が聖日に講壇に立つなどあり得ない・・・お世話になっていた経緯があり断りきれず、ずっと前から本当に気が重くブルーでした。人前で話すことがなくなってもう何年もたちますし、視力が出ないので原稿を読むというわけにもいきません。頭に入れていくしかなかったのです。当日はいろいろ言い落したことがありましたがまあ無事終了したというべきでしょう。懐かしい方々にお会いでき歓迎していただいたのはとてもうれしかったですが、こういうことはもう決してお受けしないと決めて帰路につきました。ともかくも一仕事終わってこの日の空のようにカラッと気持ちが晴れました。
また先日は信徒伝道日なる行事で、以前在籍していた教会にて福島教会の会堂再建のお話をしてきました。私が在籍していた頃もそういう日がありましたが、まさか一般信徒が日曜に講壇で話しているとは思いもしませんでした。他の教会ではまずないことでしょうし、私もてっきり神学校を出られた方とか長老さんといった立派な方々が呼ばれているのだと思っていたのです。平信徒が聖日に講壇に立つなどあり得ない・・・お世話になっていた経緯があり断りきれず、ずっと前から本当に気が重くブルーでした。人前で話すことがなくなってもう何年もたちますし、視力が出ないので原稿を読むというわけにもいきません。頭に入れていくしかなかったのです。当日はいろいろ言い落したことがありましたがまあ無事終了したというべきでしょう。懐かしい方々にお会いでき歓迎していただいたのはとてもうれしかったですが、こういうことはもう決してお受けしないと決めて帰路につきました。ともかくも一仕事終わってこの日の空のようにカラッと気持ちが晴れました。
2016年10月12日水曜日
「読書の秋」
最近読むのはほぼ旧約聖書です。聖典と思うとなかなか手が出ませんが、観点を変えて書物の一つとして読んだらこんな興味深いものはありません。不思議な話、残酷な話、相互に矛盾した話、死んでも死に切れないような不本意な話が残ってしまった登場人物もたくさんいます。誰かの権威づけのために書かれたものではないので、歴史上の偉大な人物もただの人、悪行が白日の下にさらされたり、弱さをさらけ出して神により頼んで救われたりといった話が繰り返し出てきて、人間の愚かさ加減が身にしみます。同じような話に見えても民族の歴史として余すところなく書き記さねばならないという恐ろしいまでの執念・・・・。
偶然かもしれませんが 「イザヤ書を読む」を書いた途端、イスラエルからの大量アクセスがあったのでうっかりしたことは書けません。(まずいことは書いてないと思うけど・・・。)勝手な解釈も危険。その上で敢えていうなら、神は初めから弱く邪悪でダメな人間すべてを対象に救いを目指されてきたのだということしかありません。疑問に思うことを調べ始めるときりがなく、古代ユダヤ教の慣習を知らないと理解できないことも多いですが、「ふ~む、神様はこういう手を使われたか。」と自分なりに納得できることもあります。
私の場合は読むと言ってもほぼ聞くのであり、データとして手に入るのは著作権の切れた口語訳です。新共同訳と読み比べてそれぞれ一長一短あるものの、口語訳も悪くないなと感じます。素人が言うのもなんですが、新共同訳にはちょっとありがた迷訳的なところがないでしょうか。今わからない疑問点は祭司や祭儀に関すること、預言者に関することなどで、些末なことかもしれませんが気になりだすと止まりません。おかげで読書は遅々として進まず、頭で理解するだけでも相当時間がかかりそうです。体感的にわかるにはきっと一生かかるでしょう。不謹慎化もしれませんが当分楽しんで聖書が読めそうです。
偶然かもしれませんが 「イザヤ書を読む」を書いた途端、イスラエルからの大量アクセスがあったのでうっかりしたことは書けません。(まずいことは書いてないと思うけど・・・。)勝手な解釈も危険。その上で敢えていうなら、神は初めから弱く邪悪でダメな人間すべてを対象に救いを目指されてきたのだということしかありません。疑問に思うことを調べ始めるときりがなく、古代ユダヤ教の慣習を知らないと理解できないことも多いですが、「ふ~む、神様はこういう手を使われたか。」と自分なりに納得できることもあります。
私の場合は読むと言ってもほぼ聞くのであり、データとして手に入るのは著作権の切れた口語訳です。新共同訳と読み比べてそれぞれ一長一短あるものの、口語訳も悪くないなと感じます。素人が言うのもなんですが、新共同訳にはちょっとありがた迷訳的なところがないでしょうか。今わからない疑問点は祭司や祭儀に関すること、預言者に関することなどで、些末なことかもしれませんが気になりだすと止まりません。おかげで読書は遅々として進まず、頭で理解するだけでも相当時間がかかりそうです。体感的にわかるにはきっと一生かかるでしょう。不謹慎化もしれませんが当分楽しんで聖書が読めそうです。
2016年10月5日水曜日
「理解を越えること」
世の中にはわからないことが多いとつくづく感じる日々ですが、それでふと思い出したことがあります。もう20年以上も前のこと、イギリス旅行中にこんなことがありました。今となってはどこの都市だったか思い出せないのですが、そこから日帰り旅行を計画していた時でした。「××まで片道1枚」と切符売り場の窓口で言うと、「今日帰ってくるのか。」と問われました。「はい、日帰りです。」と言うと、「では往復を買いなさい。」とのこと。窓口の人はその理由も言いましたがよくわからなかったので聞き返しました。それでもやはりわからず、いずれにせよ帰りの切符は到着地で買わなければならないのですから、勧められるままその場で往復切符を買いました。旅行中にその切符のことがわかってびっくりしました。駅員さんが言った通りの切符だったのです。「往復を買いなさい。片道より安い。」 私がこの言葉を理解できなかったのはそれまでの人生で片道切符より安い往復切符なるものに出会ったことがなかったからです。人間は体験したことがない事柄を耳で聞いても理解できないのです。そのような切符がいまだに存在するとは思えませんが、おそらく平日(週末かもしれない)の特定の時間帯とか、目的地が何キロ以下(以上かもしれない)といった縛りの多い特別切符だったのだろうと思います。
世の中にはわからないことが多い。日本とほぼ同じ生活様式(これはもちろん日本の方が英国様式を取り入れたのです)の国でさえ、理解を越えるシステムが存在するのですから、わからないことだらけと言ったほうがいいくらいです。ましてや人間界を越えることなどわかるはずがないのです。なぜ自然災害が人間を襲うのか、なぜよい人が無意味に死ぬのか、なぜ悪人が栄えるのか・・・私たちには何もわからないのです。災難に関してはそれに遭遇した人とそうでない人の間に何か違いがあるのか、おそらく何も違わないでしょうが、そういうこともわかりません。人間の頭でわかるようなら神の領域のことではないのです。わからないのは仕方のないことであり、またそれでよいのです。ただ、時間というファクターを考えに入れればひょっとしたら理解の手がかりになるかもしれません。と言ってもその時間とは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう(ペトロの手紙二3章8節)」な、とらえがたい不思議な時間なのですが。
世の中にはわからないことが多い。日本とほぼ同じ生活様式(これはもちろん日本の方が英国様式を取り入れたのです)の国でさえ、理解を越えるシステムが存在するのですから、わからないことだらけと言ったほうがいいくらいです。ましてや人間界を越えることなどわかるはずがないのです。なぜ自然災害が人間を襲うのか、なぜよい人が無意味に死ぬのか、なぜ悪人が栄えるのか・・・私たちには何もわからないのです。災難に関してはそれに遭遇した人とそうでない人の間に何か違いがあるのか、おそらく何も違わないでしょうが、そういうこともわかりません。人間の頭でわかるようなら神の領域のことではないのです。わからないのは仕方のないことであり、またそれでよいのです。ただ、時間というファクターを考えに入れればひょっとしたら理解の手がかりになるかもしれません。と言ってもその時間とは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう(ペトロの手紙二3章8節)」な、とらえがたい不思議な時間なのですが。
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