今年意図せずして巻き込まれてしまったことの中に、「裁判外紛争解決手続」がある。日本の様々な制度はアメリカの後追いであることが多いが、これなども法科大学院制度や裁判員制度と同様、司法制度改革審議会による司法制度改革の一環であり、一般にADR(Alternative Dispute Resolution)と呼ばれている。Alternativeは代替的という意味であるから、この場合に当てはめると「裁判に代わる」紛争解決方法ということになる。ウィキペディアには「訴訟手続によらない紛争解決方法を広く指すもの。ADRは相手が合意しなければ行うことはできない。平成16(2004)年に成立。紛争解決の手続としては、『当事者間による交渉』と、『裁判所による法律に基づいた裁定』との中間に位置する。紛争解決方法としては、あくまで双方の合意による解決を目指すものと、仲裁のように、第三者の判断が当事者を拘束するものとに大別される」と記されている。
発足から二十年たってかなり制度として整ってきたようで、これを行う機関として司法機関(簡易裁判所、家庭裁判所、地方裁判所等)、行政機関(例えば国民生活センター、消費生活センター、労働基準監督署、労働相談情報センター、建設工事紛争審査会、原子力損害賠償紛争解決センター等)ばかりでなく、様々な民間機関(例えば日本スポーツ仲裁機構、日本弁護士連合会交通事故相談センター、日本知的財産仲裁センター、事業再生実務家協会、全国銀行協会、生命保険協会、日本損害保険協会、日本不動産鑑定士協会連合会等)もある。生命保険協会、日本損害保険協会に関しては2010年に金融庁の指定により創設されたようである。
確かに、普通に暮らしているだけで事故や事件に伴う紛争に巻き込まれてしまう時代である。裁判により決着を図ろうとすれば、相当なお金と時間がかかる。裁判所だって数が膨大過ぎて手に余るであろう。この制度は一般庶民が少なくとも為すすべなく泣き寝入りすることは避けられる制度である。私が思うにこの制度の第一の関門は、相手が紛争の訴えを受けて紛争解決手続を行うことに合意することであり、第二の関門は双方が自らの主張への思い入れをいったん脇に置いて、解決の道を探る気があるかどうかということなのではないだろうか。すなわち、お互い我慢しながらも落としどころが見つけられるかということである。
最近ADRに関するお仕事小説を読んだ。裁判を扱った小説はよくあるが、ADR関係の小説があるとは思わなかった。それほど一般化してきたということか。その話の中で、本当に存在するのかどうかは分からないが、ADRを専門に扱う弁護士が出てきた。ADRの場合、庶民が大企業や巨大組織に蟷螂の斧を振るう図式になりやすいが、小説の中では弁護士が依頼主の思いを外れて行動しながらも、最終的には依頼者に最もよい結末を導き出していた。驚いたのは、「責任を取らせたり、罰を負わせたりせずに事件を解決すること」を主眼としていることである。裁判であれば「どちらに正義があるか」ということが一番重要な争点のはずである。小説の中のADR専門の弁護士は、「目指すのはトラブルの当事者双方が納得する妥協点。どっちが正しいとか正しくないとかは重要じゃない」と言い切っていた。私は最初これをどうしても飲み込めなかったが、例えば司法取引のような合理性を重んじる頭脳であれば、「双方をそれなりに和解させ、手ぶらでは帰さない」という思考になるのかもしれない。おそらくその前提は、正義の所在を争点にすると、絶対に落としどころが見つからないという、人の世の常への深い洞察なのだろう。
そう言えば、それを裏書きするかのように、ADRにはもう一つ顕著な特徴がある。それは関連事項については全て「当事者外秘」ということである。裁判ではその過程や判決が明らかにされ、事件の概要によって前例なども考慮されるが、ADRにはそれが無い。見方を変えると、この秘匿性は双方にとって大きなメリットになり得る。それが大企業や巨大組織がADRでの紛争解決に応じる理由かもしれない。さらに、紛争解決手続が公表されないということは、一件一件が一回限りの独立した案件ということになり、その時々の判断がその後に起きる別の案件の解決策に縛りをかけることがないということだ。こうして見ると、「正義」ばかりか「公正」もさほど重要な視点ではないらしい。とにかく目指すのは「撃ち方止め!」ということなのか。なるほどねぇ。