今年も11月の第一日曜がやって来た。この日は逝去者記念礼拝および墓前礼拝の日で、いつも10月末には帰省する。この日程は新しい手帳に換えたとき真っ先に書き込むスケジュールである。今年の帰省日は雲一つない秋晴れの日だった。おそらく郷里では年に何日もないような上天気である。ローカル線の駅まで兄に迎えに来てもらい、途中農協の直売所に寄っていく。梨(王秋)が6つで324円、リンゴ(ほおずり)が5つで400円、甘柿が9個で280円と、目が点になる安さ。家に着いてすぐ食すとどれも甘くて当たりだった。これぞフルーツ王国の醍醐味。
午後はあまりに気持ちが良いので土手道を散歩に出た。吾妻山に向かってどんどん歩く。一つ箸を越え、まだまだいくらでも歩ける感じだったが、行った分だけ戻って来なきゃいけないという当たり前のことにはっと気づき、どこまでも行きたい気持ちを抑えて適当なところで引き返す。
家の近くまで来て、「バウワウ」とすごい勢いで吠えられる。いつもは小屋の中に入っているのに、やはり気持ちが良くて出ていたのか。「ブンちゃん!」と呼びかけると、ピタッと声が止まる。「誰? 知ってる人?」とかたまるブンタ。「ブンちゃん忘れちゃったの?」と話しかけるがじっとこっちを見ているだけで、思い出したそぶりはない。無理もない。りくを散歩させながら両者を出併せていたのはもう4年近く前のことだもの。「ブンちゃんまたね」と言って帰る。実に良い日だった。
翌日の午前中はずっと気になっていた障子の張り替えをした。数年前に他のところを張り替えた時、「ここはきれいだからまだいいか」と端折ってしまった場所が、見た目にもよれよれになり限界だったのだ。天窓も含めきれいに張り替えてとても気分が良い。午後は疲れが出て休む。
三日目はお墓のお掃除。教会墓地にうちは三人お世話になっている。入った順に、母、ヘルベルト(分骨)、父である。お掃除を頑張らねばと思う。教会員のお一人が車で迎えに来てくださり、もう一人を拾い、信夫山の教会墓地に着くと墓地委員のお一人がもう待っていらっしゃった。そこへあと二人が車で到着し、総勢六人で取り掛かる。私もゴム手袋、草取りの道具、ハサミ、ペットボトルの水等を持って行ったが、なんと草取りはもう済んでいて敷地はきれい。今年は便利屋さんに頼んだという。だから後は墓石を拭き、担当の方が用意してきたお花を献花台に差すだけ。なんと楽ちんなことか。そのあと持参した飲み物やお菓子をみんなで食べる。こっちが主目的だったりして。雲はあったが前日同様本当に気持ちの良い秋の日だった。
私は知らなかったのだが、実はこの後みなが楽しみにしているイベントがあった。それは野生の柚子の実を集めること! 山に生えている柚子の木にたわわに実が実っているのである。一人が長い枝切り鋏(✂)を用意していて、みんなで運動会の玉入れみたいな籠にどんどん入れていく。唯一の問題は柚子の枝にはトゲが付いているので怪我をしないようにすることだった。番外編も楽しめて、一日いい日であった。その日のお風呂はもちろん柚子湯、あ~いい匂い。
さていよいよ日曜となったが、なんとこの日は町内会のお掃除の日でもあった。朝7時から町内総出で草刈りと側溝の泥上げを行う。ずっとしゃがんだままだと腰が痛くなり、適当に立ち上って腰をトントンしながら頑張る。車道の割れ目から出ていた芝もカギ張りのような道具できれいにする。作業しながら話していると、相手が小学校の同級生の姪御さんと判明したり懐かしい情報交換もできた。2時間ほどで終わる。
すぐ着替えて教会へ向かう。牧師先生の説教箇所は詩編23編の「主は我が羊飼い」であった。詩篇23編は「賛歌。ダビデの詩」であり、詩編の中でも最もよく知られた箇所である。(詩編23編1~6節)
主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。
主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。
私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。
命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。/私は主の家に住もう/日の続くかぎり。
礼拝ではこれにヨハネによる福音書11章のラザロの復活を絡めて、説教がなされた。途中何故か文語訳の引用があった。牧師先生にはそれがしっくりくるらしい。ラザロの姉妹のマルタとマリアは「人をイエスに遣わして『主、視よ、なんぢの愛し給ふもの病めり』と言わしむ」と。確かに味わい深い文である。主イエスはここではラザロの病を癒しに行くことなく、彼が死んで周囲の皆がそれをはっきり認識した時になって言葉を発する。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く(ヨハネによる福音書11章11節)」と。もちろん主イエスは人としてのラザロの命は取り去られたことを踏まえたうえで「私は彼を起こしに行く」と仰ったのである。そしてイエスが「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれ(同上11章43節)ると、「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た(同上11章44節)」。
キリスト者の中にも復活を信じきれない者は少なくないように思う。しかし復活について懐疑的な者もおそらくほぼ全員が、既に天に召された愛しい者たちが天国で主イエスと共に安らいでいるのを確かなこととして信じているようである。この世の命が終わってからのキリスト者の復活とはおそらくこのラザロの復活のようなものなのであろう。そして羊飼いなる主イエスはその「愛し給ふもの」らを必ず導いて「命あるかぎり恵みと慈しみが私を追う」と言い切れる人生を送らせ、私を日の続く限り主の家に住まわせてくださるのである。
礼拝後、有志が車に分乗して信夫山の教会墓地に向かう。前日きれいにした場所で賛美歌を歌い、牧師先生の短い説教をお聞きし、お祈りをする。またしても気持ちのよい秋晴れの天気。11月3日は晴れの特異日と言われるが、私の滞在中10月31日以外は秋晴れだった。本当に有難い神様からの贈り物である。今回の帰省はかなりの強行軍でまだ腰が痛いが、なんと恵みと慈しみに満ちた時間だったことだろう。神様に心からの感謝をささげる。