ひらがなで書く「きょうだい」という言葉を最近目にするようになった。いつからある用法なのか知らないが、少なくとも私は学校で習った覚えのない書き方である。大人になってかなりたった後でも見慣れぬ言葉だから、割と最近意識されて使われるようになったのかもしれない。
ネットで検索すると、「同じ両親を持つ兄弟姉妹のこと」で「血縁関係にある兄や姉、弟、妹をまとめて表す言葉」とのことである。
この説明だと、例えば家族について質問する時、「兄弟姉妹はいる?」とは聞かず、「きょうだいはいる?」と聞くような感覚なのかと思う。兄弟姉妹という語は長くて扱いにくいからである。
ところが「きょうだい」という語は別の使い方もあるようなのだ。それに気づいたのは、藤木和子著『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと:50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』という本を読んだ時である。この本で「きょうだい」という語は、兄弟姉妹の中に障碍者がいる場合の用法として使われている。この本は自身も障害のある弟をもつ身として、長い人生のうちに生じてくる問題を同じ境遇にある方々と共有することを意識して書かれている。そんな「きょうだい」の用法があるのかと目を開かれた思いだった。
この語について私が最初に意識したのは、聖書協会共同訳の聖書において「兄弟」と「きょうだい」が区別されていることに気づいた時である。いわゆる血縁関係にある場合は「兄弟」と書き、同じ神を信じる同胞(やがては異邦人をも包含する)を「きょうだい」と書いて区別している。例えば、次のような記述がある。
● そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、二人をお呼びになった。(マタイによる福音書4章21節)
● イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」 そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。(マタイによる福音書12章46~49節)
さて、教会では古くから教会に集う信徒同士、互いに「兄弟姉妹」と呼ぶ観衆がある。主なる神に「アッバ、父よ」と呼びかける者はみな兄弟姉妹である。ただ、面と向かって「兄さん」とか「姉さん」と呼び合うことはなく、主に書面で表す時に「〇〇兄」とか「△△姉」等と書き表すことが多い。年齢にかかわらず、「〇〇弟」や「△△妹」を使うことはない。世の方々には少々薄気味悪く感じられるかも知れない。
8月末の聖日、東京で通っている教会員の方が福島教会に来訪された。この教会は、福島教会の会堂再建に際して多くのご支援をいただいた教会である。もう十数年経つとはいえ、当時多くの教会員が福島教会を訪れて力づけてくださったこと、また、福島教会の長老が相手方教会を訪問して、良きお交わりをいただいたことは忘れ得ぬ出来事である。
今回来てくださった姉妹は、仕事関係で仙台で行われた研修会に来られたのであるが、わざわざ一泊して帰りに寄ってくださった。「ぜひ一度福島教会の礼拝に出席したかった」との思いからである。私も帰省日程を合わせてお迎えできて本当によかった。出迎えの時は喜びの声で満たされ、当時の経緯を知る者たちは長年のつながりを神様に感謝した。
私は礼拝を彼女の隣でご一緒したが、彼女が選んだ席は前方右手の講壇横であった。私は初めてその席に座ったが、座る位置によって礼拝の印象も変わるものだと感じた。その日の聖書の箇所はまさしく上記マタイによる福音書12章46~49節であった。遠くから「きょうだい」が訪ねてきたのである。喜ばずにいられようか。礼拝後、講壇の前で記念写真を撮った。その夜彼女から、「しみじみとした感謝と喜びに満たされて帰宅しました」とのメールがあった。