「9月に帰省するけど、会えない?」というメールをもらった。遠く関西に住んでいる友人からである。彼女と私は中学・高校と一緒に福島教会に通った幼幼なじみである。一緒といっても彼女は学年が一つ下だったので学校での接点はなく、毎週教会でだけ顔を合わせる間柄だった。明るく快活で外向的な人なので、彼女がいるといつもパッと花が開いたような楽しい雰囲気になった。
母に連れられて幼児の時から教会に行っていた私と違い、彼女は中学になって突然友達と教会にやって来た。「自分から進んで教会に来るなんてすごい」と私は感嘆していた。彼女と一緒に来る友達は日によって違ったけれど、彼女は常に変わらず、一人になっても教会に通い続けた。
その頃も教会に中高生は数名しかおらず、それだけに懐かしい記憶がくっきりと思い出される。分級の時間に、その当時副牧師館と呼ばれていた、ちょっと薄暗い畳の部屋で、聖書を少しずつ読んで牧師先生のお話を聞いたこと、いわゆる讃美歌とは違うが、その頃若者向けに盛んに作られた讃美のためのフォークソングやゴスペルを歌って楽しかったこと、聖書の学びや飯盒炊さんをしてテントで寝た、夏の中高生ワークキャンプの一コマなど、一緒の思い出が頭に浮かぶ。
彼女との関係がにわかに密になったのは東日本大震災の時である。被災したため取り壊しとなった教会堂の再建のために、教会員一同皆で頭を悩ませ、祈っている頃だった。私は東京在住であったが、教会籍を福島に移して何かできることはないかと考えた結果、個人事業者となって手作り品をネット販売することにした。彼女も会堂再建について深く案じていて、私の事業に手を貸してくれた。まさに関西支店の営業部長のような大きな力を発揮して働き手となってくれたのである。後で聞いた話では、関西婦人会連合のバザーのブースで、「福島教会会堂再建支援」の幟を立てて、孤軍奮闘してくれていたらしかった。かたじけない。私たちの献身は会堂再建のためのわずかな拙いものであったが、彼女との絆が思いがけず強まったのは誠に感謝であった。
コロナの頃はもちろん会えなかったし、そうでなくてもお互い自分のスケジュールで動いているので帰省の時期が一致することはめったになかった。だが、今回は予定を一週間ずらして会うことができた。数年ぶりの彼女は一見全く変わっていないように見え、久しぶりに礼拝を共にすることができて、とてもうれしかった。揃って母教会で礼拝に出席できたことは神様からの大きな恵みである。彼女は久々の帰省なので教会のみんなに声を掛けられて、「やっぱり福島教会はいいなあ」と言っていた。
礼拝後少し話をしたが、お互い年齢相応にそれぞれ病があったり、悩みがあったりすることが分かったが、「全てを委ねて安心していられる神様が与えられていること以上の恵みはない」という点で一致した。「竹馬の友」という語を念のため調べて驚いたのだが、この「ちくば」というものを私は恥ずかしながら「たけうま」の事だと思っていた。二本の竹竿の途中に横木がついたアレである。だが実はそうではなくて、「竹の先に木などで作った馬の頭の形を付け、またがって遊ぶ玩具」であるという。軽いカルチャー・ショックである。そうなるとこれはかなり幼児的な遊びであろうし、せいぜい小学校低学年くらいまでの玩具ではなかろうか。私は間違っていた。彼女と私は「ちくばの友」というより「たけうまの友」だったのだ。あの頃はきっと二人とも、「たけうま」に乗って歩くような、たどたどしくヨチヨチ歩きの信仰であった。その頃に培われた友情なのだとつくづく思う年代である。