2025年4月24日木曜日

「2025年のイースター」

  このところ春は教会総会に合わせて帰省していたが、今年はカレンダーの関係でイースターに帰省することになった。その日、4月20日は光の春を迎えて、穏やかで良い気候に恵まれた日だった。兄に送ってもらい、早めに教会へ。静かな会堂でイースターの幸いをかみしめながら礼拝が始まるのを待つ。その日の聖書の箇所は「ヨハネによる福音書20章19~23節」で、説教題は『あなたがたに平和があるように』であった。ヨハネによる福音書20章はマグダラのマリアが早朝お墓で復活の主に出会う場面(1~18節)から始まる、私の特愛の箇所である。以前「信じる者とされるまで」に書いたが、ここまでヨハネ福音書をずっと読んで登場人物の足取りを追ってきた者にとって、人が神を信じるとはどういうことかが、一瞬の出来事としてこれほど見事に示される場面はないと思う。「私は主を見ました」と、復活のキリスト・イエスについて最初に告白したのはこの女性であった。

 説教の箇所はそのあとの、主イエスが弟子たちのところに現れた場面である。(ヨハネによる福音書20章19~23節)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエスが十字架刑で処刑された後、恐くてひとところに閉じこもっていた弟子たちに主イエスは現れる。そして真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われるのである。これは全くの、天から降ってきたような恵みである。主イエスの言葉は、「あなたがたに平和がある」とも解される言い方であり、「もう既にあなたがたには平安がある」と仰っていると言ってもよい。主の復活は全くの与えられた慈しみなのである。ここには喜びしかない。弟子たちは全ての罪赦されて、どれほど平安を感じたことだろう。

 さて、礼拝の後は、今回は祝会といった改まったものではなく、ミニバザー食事会。婦人会のお働きにより準備されたお食事をいただいてテーブルごとに懇談し、普段は話す機会がない方々といろいろなお話をした。とても貴重な楽しい時間となった。ミニバザーによる収益は会計の大事な一部となる。一昨年教会会計が大幅な赤字になったことから、この2年間皆で献金と倹約に励んできた。昨年は赤字幅が収縮した者のまだ赤字だった。「今年はどうかな」と思っていたら、その後牧師先生と言葉を交わした時、「次週の教会総会資料を見てください。わずかですが黒字に転じました」とおっしゃったので、思わず心の中で拍手。これも本当にうれしいことで、喜びが増したイースターであった。

 説教の中で牧師先生は23節の言葉が曲解されて用いられた不幸な歴史にも触れた後、その言葉が真に意味するところについて、「私たちがキリスト・イエスの十字架の死と復活を宣べ伝えずして、いったい誰が伝えるのですか」と言われた。その通りだと思う。


2025年4月18日金曜日

「リフォーム準備」

  ハードな日々が続いている。水濡れ事故の原状回復と今後の水漏れ事故予防を企図した全給水・給湯管工事のためである。先日は工事の契約書を交わした。このような大きめの契約は二十数年ぶり。どのような分野でもそうだと思うが、現代社会で一番難しいのは信頼できる人、信頼できる会社を見つけることだろう。ネットがこれだけ普及しても、これは年々一層難しくなっていると感じる。それさえ見つかれば後の苦労は報われる。今回、住宅関係の心配事を今後も相談できる相手が見つかったので、被った災い以上の収穫があった。神様のご加護としか言いようがない。

 いよいよ工期が決まり、ほぼ一か月にわたる大工事になることが分かった。始まるまでにそれほどの猶予はないこと、当初考えていた以上に大きな空間を空けねばならないことが判明し、結構焦っている。「要る」「要らない」を分ける時間がないものは、取り敢えず箱や透明な袋に入れて場所を移し、棚や引き出しを空にしていく。空いたスチール棚などは工事の及ばない場所に移動する。りくの手も借りたい状況である。実際にりくがいたら「遊べ、遊べ」と言って邪魔しに来るので、今以上に作業は遅れるのは目に見えているが・・・。それくらい時々気晴らししながらやらないともたない感じではある。

 何しろ水回りの工事なので、キッチンにある文明の利器は当面使えない。しかし、電子レンジと炊飯器、フライパンとやかん、あとは少しの食器類と水切り場さえあれば何とかなる。そう言えば、社会人になって初めて住んだ住宅の台所は狭くて、今のキッチンの三分の一もなかったなと思い出した。これでも避難生活をしている方々から見れば十分恵まれている。片づけをしていると、本当に必要な物はそんなに多くないと毎日気づく。これも神様の御恵みと思う。


2025年4月10日木曜日

「パソコン利用の矛盾」

  パソコンを巡る悩みはたくさんあるが、最近一番感じるのは「パソコン操作が不得手な人を置き去りにしようとしている」ということではないだろうか。試しに『日経パソコン』を読んでみたが、私などにはちんぷんかんぷん、関心のある人には生成AIの詳細は役立つ情報であり、まもなくサポートされなくなるウィンドウズ10から11への乗り換え情報も必要であるから、こういう雑誌は役立つであろう。しかし、マイクロソフトに言いたいのは、商品開発の方向性が恐らくはビジネスパーソン向けに限られていて、そもそも「パソコンは今のままでよい」という、デジタルに疎い多くの顧客のニーズを無視しているとしか思えないということである。

 もう一つは永遠の課題かもしれないが、個人情報に関するパソコンの使いやすさとセキュリティの問題である。個人情報を盗み取る詐欺的犯罪が増大するにつれて、セキュリティ設定も詳細で複雑になっている。パソコンは出荷時には危険と言っていいほど、個人情報が垂れ流しになる設定であるから、各人が設定を変えることになるが、この設定に関する説明が専門用語でなされているため意味が理解できない。本を読んだり、自分なりに調べたりしながら設定するが、それがうまくいくとは限らない。

 今までできていた音声図書館からのダウンロードができなくなり、私はここ何か月も頭を悩ませてきた。また、或るページを開こうとして「このページは表示できません」と表示されることもあった。どちらも解決法を捜してあれこれ調べ、「アカウントを変更したせいだろうか」「管理者の設定が間違っているのだろうか」と試してみた。が、余計状態が悪化して元に戻すことはあっても改善することはなく、全てが水泡に帰した。

 私が日ごろ使っている検索エンジンにはマイクロソフトエッジとグーグルがある。解決のカギは上記の事象が起きているのはエッジだけであり、有難いことにグーグルでは必要な用を足せていた。となると、両者の設定の違いが原因として考えられる。私としてはパソコン上に個人情報が残ることを極力避けたいので、検索エンジンの終了時には毎回履歴の削除を行っていたが、プライバシーとセキュリティの設定を見返してみたところ、思い当たることがあった。

 以前利用者のWebサイト閲覧履歴や設定情報などを保存するために使用されるCookieが問題になった時、私の頭には「Cookieは危険なもの」という刷り込みがなされた。利便性より安全性というわけである。しかし、或るページを開くには、現在アクセスしているWebサイトと同じドメインから送信されるファーストパーティCookieが必要な場合がある。危険なのは現在アクセスしているWebサイト以外のドメインから送信されるサードパーティCookieなのである。改めてエッジの設定を調べてみると、ブラウザの「追跡防止機能」を厳しく制限していたことが分かった。これを解除したところ、問題はあっけなく解決した。グーグルはこのあたりがまだ緩かったせいで、エッジが使えなかった間、助かっていたわけである。

 分かっている人には何でもないことなのだが、このことで私は何か月も悩んだ。この問題をウェブ上で解決しようといろいろな質問をしてみたが、AIによる回答も的外れで何度途方に暮れたことだろう。たぶん「いまさら聞けない」レベルの質問だったに違いない。もはやパソコン弱者にとっては、新たに便利な機能のあるパソコンの追求より、こういった当然分かっているはずの問題を簡単に解決してくれる機能が必要なのである。一般人は「安全で簡単」な機能を求めている。庶民をパソコンから遠ざけないためにもそちらの方面への尽力を是非お願いしたい。


2025年4月3日木曜日

「片づけに追われる日々」

  夜明けとともに起き、暗くなるまで作業する日が続いている。この歳になって時間に追われる生活になるとは思っていなかった。家のリフォームが必要になったのである。工程の詳細はまだ未定だが、今のうちから片づけ始めないと間に合わないことだけは私にも分かる。家の中の或る一定の空間を工事のために空けるのは大変なことだ。狭い家ならなおさらである。「引っ越しは最高の断捨離」と聞いたことがあるが、我が家はもう二十年以上何ら変わりなく、生活の歴史がそのまま溜まっている。小さなデッドスペースを見つけては全て保管場所として利用してきたので、その量は目に見える量の倍になる。

 毎日毎日片づけである。家具の移動には布や段ボールを底面にかませて引くしかない。そのためには、私の細腕で引けるほどには重量を減らさねばならない。大きな戸棚も動かすとなると、中身を全部出して捨てるものと取っておくものに分け、必要な物は工事が及ばない場所に移動する。整理してあるものを戸棚から出すと、信じられないくらい場所を取る。箱に収納しては別室に移していくと、どんどん部屋が狭くなり、エントロピー増大の法則に則りますます乱雑になっていく。もはや寝る場所を確保できるか・・・という悲惨な状態である。捨てるものも個人情報が絡んでいる場合はそれなりの処置をしなければならず、いくらシュレッダーにかけても終わらない。

「時間が夢のように過ぎていく」と言えば聞こえはいいが、生産的な作業ではないので気分は下向き。この合間に通院や年度初めの様々な申請準備、そしてもちろん体調を崩さぬよう食事にも気を配らねばならない。ラジオで桜の話題はずいぶん聞くが、とても花見どころではない。先日、日曜に教会へのバスの中から、初めて満開の桜を見て驚いた。礼拝は束の間の安息、力を得て、また怒涛の作業を続ける日々が続く。