このところ春は教会総会に合わせて帰省していたが、今年はカレンダーの関係でイースターに帰省することになった。その日、4月20日は光の春を迎えて、穏やかで良い気候に恵まれた日だった。兄に送ってもらい、早めに教会へ。静かな会堂でイースターの幸いをかみしめながら礼拝が始まるのを待つ。その日の聖書の箇所は「ヨハネによる福音書20章19~23節」で、説教題は『あなたがたに平和があるように』であった。ヨハネによる福音書20章はマグダラのマリアが早朝お墓で復活の主に出会う場面(1~18節)から始まる、私の特愛の箇所である。以前「信じる者とされるまで」に書いたが、ここまでヨハネ福音書をずっと読んで登場人物の足取りを追ってきた者にとって、人が神を信じるとはどういうことかが、一瞬の出来事としてこれほど見事に示される場面はないと思う。「私は主を見ました」と、復活のキリスト・イエスについて最初に告白したのはこの女性であった。
説教の箇所はそのあとの、主イエスが弟子たちのところに現れた場面である。(ヨハネによる福音書20章19~23節)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
イエスが十字架刑で処刑された後、恐くてひとところに閉じこもっていた弟子たちに主イエスは現れる。そして真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われるのである。これは全くの、天から降ってきたような恵みである。主イエスの言葉は、「あなたがたに平和がある」とも解される言い方であり、「もう既にあなたがたには平安がある」と仰っていると言ってもよい。主の復活は全くの与えられた慈しみなのである。ここには喜びしかない。弟子たちは全ての罪赦されて、どれほど平安を感じたことだろう。
さて、礼拝の後は、今回は祝会といった改まったものではなく、ミニバザー食事会。婦人会のお働きにより準備されたお食事をいただいてテーブルごとに懇談し、普段は話す機会がない方々といろいろなお話をした。とても貴重な楽しい時間となった。ミニバザーによる収益は会計の大事な一部となる。一昨年教会会計が大幅な赤字になったことから、この2年間皆で献金と倹約に励んできた。昨年は赤字幅が収縮した者のまだ赤字だった。「今年はどうかな」と思っていたら、その後牧師先生と言葉を交わした時、「次週の教会総会資料を見てください。わずかですが黒字に転じました」とおっしゃったので、思わず心の中で拍手。これも本当にうれしいことで、喜びが増したイースターであった。
説教の中で牧師先生は23節の言葉が曲解されて用いられた不幸な歴史にも触れた後、その言葉が真に意味するところについて、「私たちがキリスト・イエスの十字架の死と復活を宣べ伝えずして、いったい誰が伝えるのですか」と言われた。その通りだと思う。