2024年9月20日金曜日

「四十年後の生徒」

  最初の職場で担任をした生徒から久しぶりに葉書が来ました。十年ほど前まで時折年賀状が届いていましたが、こういう便りはいつか発展的に消滅するのが世の習いと思っていたので、今回は「おやっ」と驚きました。このように書くと、『二十四の瞳』的な麗しい師弟関係が思い浮びそうですが、全く違います。当時の学校を取り巻く一般的状況を一言で言うと、「校内暴力が荒れ狂った時代」と言ってよく、変な言い方ですが「素朴な暴力の段階」でした。私は大学を卒業してすぐ高校教員になったので、教える生徒は自分とそれほど歳が違わないのですが、或る意味近くて遠い存在でした。この最初の赴任先は都内でも指折りの「教育困難校」で、今風に(体のいい言葉で)言えば、「やんちゃな生徒」がたくさんおり、私ごときが到底対処しきれる生徒たちではありませんでした。

 彼女の葉書は私の下の名前をちゃん付けで呼ぶ書き出しで、「〇〇ちゃん、元気してますか。めちゃ、ごぶさただけど・・・」という当時と何ら変わらない言葉遣いで始まり、用件はと言うと、私の住所が変わっていないか(郵便が届くか)、まだ先生をしているのかを確かめたかったようです。私も当たり障りのない返事をサラサラと書いてすぐ投函しました。

 まもなく今度は長い手紙が届きました。それまでもその時々で或る程度の近況を聞いていましたが、その手紙には連絡がなかった間に起こったいろいろなことが綴られていました。かつての亡くなった級友のご遺族の話には胸が締め付けられ、逆に、時々会う同級生がモールのお店で店長をしていると知れば、「当時の流行りの、くるぶしまである超ロングスカートを履いてたあの子が・・・」と、立派になった姿をうれしく思いました。当時の人間関係を丁寧に育んできた様子も分かりました。彼女自身については、育て上げた娘さんが巣立っていったこと、犬の死をきっかけに引越したこと、その後病を得たことなど、「本当によく頑張ったな」と、一生懸命に生きてきた年月に心からの拍手を送りました。教育現場は「ツッパリ」全盛の、困難さの中身が現在と全く異なっていた時代でしたが、一つだけ確かに言えるのは、「あの子たちには生きる力があった」と言うことです。

 在学中、彼女と私は決して良好な関係ではなく、それどころかかなり険悪な緊張関係の中でやり合った記憶があり、実際、ずっと前に連絡をもらった時も意外な気がしたものです。「今ならもう少しうまくできたかも知れない・・・」という後悔があり、「いややはりあれ以外できなかった」とも思い、顧みて「本当に未熟な教師だった」と、結局そこに行き着くばかりです。もう教師でも生徒でもなく、ほとんど同年配と言っていい大人同士なのですから、私も最初の葉書には書かなかった近況をそれなりに詳しく書いて封書を返信しました。現在の私にできることはほとんどなく、一つだけ、闘病中の過ごし方についてはできる限りの助言を書きました。なぜまた私を思い出したのか分かりませんが、娘さんを独立させてちょっと気が緩んだのでしょうか。否応なく、悔いの多い二十代の自分を思い起こさせられ心は乱れますが、四十年前の駄目駄目な教員を思い出してもらえたのは有難いことと言うべきでしょう。