2024年9月27日金曜日

「現状把握力」

  気を付けないといけないなと最近とみに思っていることは、物事の正しい理解であり、避けなければならないのは認識の誤謬です。周囲を見渡して様々な事象、現状、事件等を知るにつけ、現状を正しく把握できていないために多くの有害で無用な問題が発生しているように思います。このようなことを自分の身には起こしたくないと強く思うのは、歳をとるほど「自分の行動は自分で決めたい」という気持ちが強くなるからです。若いうちにできた「我慢」も、或る年齢を超えて歳に反比例するかのように体力、気力、時間等の残余が減ってくれば必須の要素ではなくなります。日々の生活様式を決めるためには自分の置かれた現状を明確に知る必要があり、この時は悲観的にも楽観的にもならず、きっぱり私情を捨てて自分を客観的に見ることが不可欠です。どんな決定も現状の把握という基盤の上に行わなければ過つからです。

 先日、整形外科を受診しました。これ以上通院を増やしたくなかったのですが、片足の痛みが2週間以上続き歩くのに難儀したので観念しました。何があるにしても診てもらうのは早いに越したことはなく、「今、自分がどういう状態にあるのか正確に知りたい」という一念でした。エックス線を撮った時点で「異常なし」と分かり安堵したのですが、医師に「でも痛いんですよね?」と聞かれ「痛いんです」と答えると、後日MRIを撮ることになりました。長年骨が脆くなる薬を服用してきたので心配でしたが、結局エックス線では分かりづらい部分も含め、骨に異常はないことが分かりました。痛みを感じていた向う脛は問題なく、確認されたのは膝の軟骨のすり減りでした。ここに私の認識の誤謬がありました。主観的には「向う脛の骨が痛い」と感じていたのですが、実際は軟骨のすり減りが痛みの原因でした。それを聞いて心底安心したのは、もう片方の足で同じ状態を以前経験し、それを今は克服できていたからです。今後の見通しが立ち、「ほぼ完治に至るまで3年かかるが必ず治る」と思えることで、悩みから解放されました。

 毎日生活していくうえで必要なのは、「自分または自分を取り巻く状況を正しく知る」と言うことに尽きます。これはあらゆる分野に及び、巨視的に言えば、あからさまな不正と暴力が頻発する世界の中で、高齢化と少子化が進む社会の中で、生存を脅かす環境になりつつある気候変動の中で、弱肉強食が加速する世界経済と食糧問題の中で、「いま私は世界の中の日本という国でどんな局面に立たされているのか」を正確に知りたいと思っています。知ろうとすれば学びによって真実を知ることができるという特権は、世界的には誰にでも与えられているわけではありません。不正確な情報、粉飾、隠蔽、フェイク、洗脳がはびこるこの世でそれらを免れることは容易ではなく、そういう環境を手にすること自体が恵みと言うべき途方もない幸運なのです。真実を隠すのが致命的に駄目なのは、それによって正しい対処法を見つけることができなくなるからです。「骨が折れている」のと「軟骨がすり減っている」のでは治療法が違うように、問題の在り処が正しく究明されなければ過った対処法により、事態を一層悪くしてしまいます。それを故意に行う人々がいるとしたら許し難いことで、このような輩を糾弾しつつ、真実を見る目を養いたいものです。


2024年9月20日金曜日

「四十年後の生徒」

  最初の職場で担任をした生徒から久しぶりに葉書が来ました。十年ほど前まで時折年賀状が届いていましたが、こういう便りはいつか発展的に消滅するのが世の習いと思っていたので、今回は「おやっ」と驚きました。このように書くと、『二十四の瞳』的な麗しい師弟関係が思い浮びそうですが、全く違います。当時の学校を取り巻く一般的状況を一言で言うと、「校内暴力が荒れ狂った時代」と言ってよく、変な言い方ですが「素朴な暴力の段階」でした。私は大学を卒業してすぐ高校教員になったので、教える生徒は自分とそれほど歳が違わないのですが、或る意味近くて遠い存在でした。この最初の赴任先は都内でも指折りの「教育困難校」で、今風に(体のいい言葉で)言えば、「やんちゃな生徒」がたくさんおり、私ごときが到底対処しきれる生徒たちではありませんでした。

 彼女の葉書は私の下の名前をちゃん付けで呼ぶ書き出しで、「〇〇ちゃん、元気してますか。めちゃ、ごぶさただけど・・・」という当時と何ら変わらない言葉遣いで始まり、用件はと言うと、私の住所が変わっていないか(郵便が届くか)、まだ先生をしているのかを確かめたかったようです。私も当たり障りのない返事をサラサラと書いてすぐ投函しました。

 まもなく今度は長い手紙が届きました。それまでもその時々で或る程度の近況を聞いていましたが、その手紙には連絡がなかった間に起こったいろいろなことが綴られていました。かつての亡くなった級友のご遺族の話には胸が締め付けられ、逆に、時々会う同級生がモールのお店で店長をしていると知れば、「当時の流行りの、くるぶしまである超ロングスカートを履いてたあの子が・・・」と、立派になった姿をうれしく思いました。当時の人間関係を丁寧に育んできた様子も分かりました。彼女自身については、育て上げた娘さんが巣立っていったこと、犬の死をきっかけに引越したこと、その後病を得たことなど、「本当によく頑張ったな」と、一生懸命に生きてきた年月に心からの拍手を送りました。教育現場は「ツッパリ」全盛の、困難さの中身が現在と全く異なっていた時代でしたが、一つだけ確かに言えるのは、「あの子たちには生きる力があった」と言うことです。

 在学中、彼女と私は決して良好な関係ではなく、それどころかかなり険悪な緊張関係の中でやり合った記憶があり、実際、ずっと前に連絡をもらった時も意外な気がしたものです。「今ならもう少しうまくできたかも知れない・・・」という後悔があり、「いややはりあれ以外できなかった」とも思い、顧みて「本当に未熟な教師だった」と、結局そこに行き着くばかりです。もう教師でも生徒でもなく、ほとんど同年配と言っていい大人同士なのですから、私も最初の葉書には書かなかった近況をそれなりに詳しく書いて封書を返信しました。現在の私にできることはほとんどなく、一つだけ、闘病中の過ごし方についてはできる限りの助言を書きました。なぜまた私を思い出したのか分かりませんが、娘さんを独立させてちょっと気が緩んだのでしょうか。否応なく、悔いの多い二十代の自分を思い起こさせられ心は乱れますが、四十年前の駄目駄目な教員を思い出してもらえたのは有難いことと言うべきでしょう。


2024年9月13日金曜日

「最近の文学」

  読書が最大の楽しみの自分にとって、目が不自由でも音声で読書ができるのは本当に有り難いことです。近頃、人文・社会科学系の本を好んで読むのは考える手がかりを得られるからで、別な面から言うと文学が分からない」という側面もあります。私見では、経済成長のなかった「失われた30年」が中間層に及ぼした影響は計り知れず、人が自分の周辺の事象のみを深化追及するようになったという印象を抱いています。「貧すれば鈍す」ではなく、逆に「貧すれば敏す」とでも言えるような細やかさですが、人が自分に対して鋭敏になりすぎるのは、私には決して健やかなこととは思えないのです。

 世間でよく読まれている最近の文学書は必ずと言っていいほど経済の停滞を基調に格差や差別の救いがたい広がりを前提に描かれており、特に生育時における毒親の影が伏線になっていない作品は珍しいほどです。これに、ジェンダーやLGBTの問題が複雑に絡んで重要な主筋を形成している作品が多くみられます。自分の知らない現在の社会状況を詳細に知ることができるものの、率直に言ってその実情の描き方にも登場人物の繊細な心情にも、ついていけない感を抱いています。「文学賞の受賞作やわだ井の本を読んでも、なんか面白いと思えないの」と、たまに電話してくる友人が言った時、「私だけじゃなかったんだ」と思いました。

 多くの方が感情移入できているからこそ売れているはずの作品が、私にとっては「こんなちまちましたことで頭が満たされているとしたら、端的に辛すぎる」としか思えません。最近ラジオにもよく登場する、漫画家にして豪快な思想家ヤマザキマリが、正確な言葉でないながら、確か「日本(日本人)はどうしてこんなにちっちゃくなっちゃったんでしょうね」という趣旨の発言をしていました。「そりゃあ、若い時にあなたのような体験をする人がいなくなったからでしょ」というに尽きます。「かわいい子には旅をさせよ」が死語になり、大人は子供が転ばぬよう何歩も先まで気を配るようになって三十年経ちました。実際危険な世の中になってきたのは確かで、子供が減っていく過程で過度に手を掛けるようになったことは、自分もその流れに手を貸してきた者として否定することはできません。「みんなでひきこもりラジオ」や「尾崎世界観のとりあえず明日を生きるラジオ」など、今の日本に不可欠な本当に貴重な取り組みに尽力されている方々の働きを多としますが、それは社会がそこまで行き詰ってしまったということでもあります。とても辛い気持ちです。


2024年9月6日金曜日

「つかのまの幸い」

  いつまで月一の帰省を遂行できるだろうかと思い始めています。自分にとって果たすべきこととして行ってきましたが、今年は7月の帰省ができず8月にもつれ込んだり、移動時の不安が頭をかすめることが増えました。今回の帰省は不安定な天候と膝の痛みが悩ましい点でした。始発の新幹線に乗れれば自由席でもほぼ確実に座れるのでいつもそうしてきましたが、その時間には都バスが動いていないので最寄り駅まで歩かねばなりません。これまでは「担いで行く荷物が重いな」という程度の困難さでしたが、今回は「駅まで歩けるかな」という根本的な不安がありました。通院その他のスケジュールが決まっていると、帰省日の自由度はあまりなく、9月の帰省予定日は雨の予報でした。考えた末、「倍の時間をかければ多分駅まで歩ける。でももし、朝の出発時刻に雨だったら翌日にずらす」と決めて、兄にも連絡し、当日を迎えました。その朝は100%に近い湿度ながらギリギリ雨ではなく、無事出発でき、休み休みしながら駅まで歩けました。結局始発の新幹線に乗れ、福島に時間通り到着できました。意外な関門は新幹線からローカル線までの長い乗り換え距離とローカル線到着駅での会談の上り下りでした。さすがにここにはエレベーターはない。「今日は遅かったね」と、車で迎えに来ていた兄に言われました。

 そんな状態でしたが、帰省してよかったのは涼しくてよく眠れたこと、農家の直売所で桃、梨(豊水)、りんご(つがる)と故郷の味覚を存分に楽しめたことです。9月になって桃がまだあるとは思わなかったな。「さくら白桃」という初めて聞く名のとても美味しい桃でした。また、涼しくなったので8月にほとんどできなかった草むしりも少しできました。急がずゆっくり動けば家事も何とかなり、久しぶりにキッチンに立てました。この辺りは適切な気温と故郷パワーのおかげかなと思います。もっと涼しくなったら運動も再開して、必ず膝を直すつもりです。当たり前にできていたことが突然困難になるという事態は初めてではないとはいえ、改めてまた経験しなおして今思うのは、一日一日過ぎていく時間を、与えられた恵みの時として感謝しなければならないということです。「無理のない程度に精一杯頑張る」ことが目指すべき在り方だなと悟りました。「人の命は神様の御手のもの」、このような時が来年も来るとは限らないとの思いを、そこはかとない、しかし確かな秋の気配の中で胸に沈めたことでした。