2025年12月4日木曜日

老年時間、若年時間

 「ダニエル書」を読んだせいかどうか、夢のことが気になっている。私はあまり夢を見ない(あるいは見ても覚えていない)方だと思うが、若い頃には見たことのない夢を最近たまに見る。と言っても、解き明かしを必要としない、ごく単純な夢で、「遅れる」夢である。シチュエーションは不明ながら、何かの始業時間に遅れたり、乗り物に間に合わなかったりしているのである。

 職に就いていた頃には遅刻する夢を見たことがないのに、現在その手の夢を見るのは不思議である。時間を守ることは社会生活の基本、振り返ってみても学校なり職場なりの始業に遅れたことは、交通機関による不可抗力以外ほとんど全く無かったように思う。せっかちなので早く着きすぎるきらいがあったほどだ。学校も職場もない今、自分を時間的に制約するものは、基本的に他人に迷惑をかけない範囲のものばかりである。遅れようができなかろうが誰も困らないのである。それにもかかわらず、このような夢を見るわけは精神科医ならずとも明らかであろう。現在おこなっている(自分にしか関わらないが、自分にはそれなりに大事な)諸々の事柄について、「今まで通りの準備では間に合わない」と本人が自覚し、それが或る種自分を脅かすものになってきているということなのだ。

 若い時は毎日時間がなかった。いつも時間に追われていた。一日24時間では足りないが、それ以上あったら確実に過労だからこれでいいのだという日々だった。今の若い人がタイパを追求するのは心情的にとても理解できる。その頃は、お年寄りにはゆっくりした時間が流れているように見えて、「いいなあ」とうらやましく感じていたのである。

 しかし、老年期の多くの人が吐露しているように、歳をとると日常を成り立たせる一つ一つのことをするのに、若い頃の数倍の時間がかかるようになる。老人は一日暇な時間が十分ありそうに見られがちだが、主観的には全く違う。「一日があっという間に終わる」のである。仮に何かをするのに若い頃の2~3倍の時間がかかるとすれば、一日のうちにできることが二分の一、三分の一になるということである。ラジオを聞いていると、年末の大掃除を11月末頃から少しずつ、毎日スポットを決めて行うという老年リスナーの投稿を結構よく聞く。そうしないと大晦日までに終わらないのである。

 一日一日過ぎ去るのが速い。速すぎる。「光陰矢の如し」という格言は遥か昔を振り返って言う言葉ではなく、半年前、一年前に対する老年者が味わう感慨だと思う。いよいよ師走に入ったが、このことがとても信じられない。「ついこの間正月が終わったのに…」と思う私にお構いなく、時は高速で過ぎていく。