2025年12月11日木曜日

冬の家内作業

  寒い日の家内作業は冬の風物詩。昔の人は囲炉裏端で母さんは手袋編みや麻糸つむぎ、お父はわら打ち仕事と決まっていた。私にとって寒い冬の家内作業は何と言っても断捨離である。これは暑い夏には絶対できない。あちこち動き回って処分品を掘り出したり、シュレッダーはじめ書類の断裁等は少しやっただけでも汗ばむほどの作業である。一連の仕事はまず45ℓのゴミ袋を調達するところから始まる。ゴミ袋の買い置きはあるのだが、心置きなく物を捨てるには余分なゴミ袋がいくらでもあるという気分的余裕が必要なのだ。

 毎年重点箇所を決めて少しずつ整理してきたが、まだ手付かずの場所がたくさんある。断捨離は収納できないで溢れているところから手を付けるため、とりあえず収納庫に収まっているものはかなりの程度スルーしてきた。今回はまず一辺が70cmほどの立方体の引き出しの内部の処理が最初のミッションである。はるか昔に購入したこの家具は自分でも「なんでこんな大きな引き出し買っちゃったんだろう」と思う代物である。おそらく衣装箪笥というか、衣類の収納用に作られたものであろうが、これまで衣装を入れたことはない。ほぼ中身は書類と雑貨である。テレビがあったころはテレビ台にもなったし、テレビがない今はその上にプリンターや段ボール箱が積み上がっている。

 この3段組の引き出しにどれほど大量の書類や雑貨が収納されているか、考えるだけでも眩暈がする。何しろ重すぎて引き出しがなかなか引き出せない。以前、滑りが悪いのかとかんなをかけたこともあるのだが、そういう問題ではなかった。単純に詰め込み過ぎなのだ。

 書類の5分の4はもう要らないものと分かったが、そのまま捨てるわけにはいかない、ひたすらシュレッダーである。使い過ぎると熱で自動停止するので、冷えて再び使えるようになるまで、また要不要の仕分けするのを繰り返しながら進めるが、1段当たり4~5日を要する仕事量である。時折「データにして取っておこうかな」と思うものもあり、そうするとスキャナーを使っての読み取り作業が入る。これは結構疲れる。一方、単純作業はすぐ飽きるが、その時は別の家事をしたり散歩や買い物のため外出する。そうしないともたない。そもそも急ぐ用向きではないのだ。

 雑貨の何割かはアクセサリー類で、若い時のもの、ここ30年ほど使っていない。価値のあるものではないのでそのまま捨ててもよいのだが、箱を捨ててジッパー付きの透明の袋にとりあえず入れておく。ネックレスはともかく、今となっては煩わしいとしか思えないイヤリングをしていた時期もあったんだなあと感慨深い。服飾や工作など別の用途でも使用可能だから欲しい人がいたら上げたいくらいだ。人形やぬいぐるみを作る人なら、その飾りにすると可愛いかも。

 こうして部屋はシュレッダーの周りに処分品とゴミ袋が散乱しており、毎日何袋もゴミを出しているが、一向に終わる気配はない。引き出しが終わっても他に片づける場所はいくらもある。部屋を見渡したり収納庫を開いてみたりすると、目に入る物の片づけて順が頭に浮かび、それだけで疲れて「はぁ~」とため息が出る。長丁場である。今のところ脳内で夢見るのは、或る程度さっぱりと片付いた家のイメージである。立春頃に少しでも近づけていればうれしい。こうして毎年少しずつ断捨離して、特に残してはならない個人情報を処分していけば、後々安心である。千里の道も一歩から、がんばろうっと。


2025年12月4日木曜日

老年時間、若年時間

 「ダニエル書」を読んだせいかどうか、夢のことが気になっている。私はあまり夢を見ない(あるいは見ても覚えていない)方だと思うが、若い頃には見たことのない夢を最近たまに見る。と言っても、解き明かしを必要としない、ごく単純な夢で、「遅れる」夢である。シチュエーションは不明ながら、何かの始業時間に遅れたり、乗り物に間に合わなかったりしているのである。

 職に就いていた頃には遅刻する夢を見たことがないのに、現在その手の夢を見るのは不思議である。時間を守ることは社会生活の基本、振り返ってみても学校なり職場なりの始業に遅れたことは、交通機関による不可抗力以外ほとんど全く無かったように思う。せっかちなので早く着きすぎるきらいがあったほどだ。学校も職場もない今、自分を時間的に制約するものは、基本的に他人に迷惑をかけない範囲のものばかりである。遅れようができなかろうが誰も困らないのである。それにもかかわらず、このような夢を見るわけは精神科医ならずとも明らかであろう。現在おこなっている(自分にしか関わらないが、自分にはそれなりに大事な)諸々の事柄について、「今まで通りの準備では間に合わない」と本人が自覚し、それが或る種自分を脅かすものになってきているということなのだ。

 若い時は毎日時間がなかった。いつも時間に追われていた。一日24時間では足りないが、それ以上あったら確実に過労だからこれでいいのだという日々だった。今の若い人がタイパを追求するのは心情的にとても理解できる。その頃は、お年寄りにはゆっくりした時間が流れているように見えて、「いいなあ」とうらやましく感じていたのである。

 しかし、老年期の多くの人が吐露しているように、歳をとると日常を成り立たせる一つ一つのことをするのに、若い頃の数倍の時間がかかるようになる。老人は一日暇な時間が十分ありそうに見られがちだが、主観的には全く違う。「一日があっという間に終わる」のである。仮に何かをするのに若い頃の2~3倍の時間がかかるとすれば、一日のうちにできることが二分の一、三分の一になるということである。ラジオを聞いていると、年末の大掃除を11月末頃から少しずつ、毎日スポットを決めて行うという老年リスナーの投稿を結構よく聞く。そうしないと大晦日までに終わらないのである。

 一日一日過ぎ去るのが速い。速すぎる。「光陰矢の如し」という格言は遥か昔を振り返って言う言葉ではなく、半年前、一年前に対する老年者が味わう感慨だと思う。いよいよ師走に入ったが、このことがとても信じられない。「ついこの間正月が終わったのに…」と思う私にお構いなく、時は高速で過ぎていく。