2019年5月29日水曜日
「紅春 137」
りくはすっかり老犬の域に入り、様々な症候が出てきました。
①耳が遠い。
かなりそばで話しても聞こえていないことがあります。これは少し前から始まり、急速に進んでいるきがします。猫の声が聞こえないのはいいのですが、家族も相当大声で言わないと聞こえなくなっています。また、聞こえないから自分の「ワン」の大きさ加減が調節できないのか、どんどん大声になってきているのです。外にいる時はたいてい通る犬への声掛けなのですが、早朝などは近所迷惑なので、本人が嫌がっても家の中に取り込んでいます。
②視野が狭くなった。
真正面のものは見えていますが、真横ですぐそばにいても気づかず、声を掛けながらなでても「ビクッ」とするのでわかります。せめて白内障はできるだけ避けられたら、と思っています。内犬なので始終紫外線を浴びているわけではないですが、「外に居たい」という時は外に置いているので心配です。
③我慢ができなくなった。
散歩に行く気が旺盛なのはよいのですが、「今、用意するから」と言って支度をしていても、もう待ちきれないのです。何度も私と勝手口の間を落ち着きなく行き来し、時間がかかっていると何やら「ムニャムニャ」唸ったり、「ワン、ワン」と大声で吠えたりするのです。昔はこれほどひどくはなかったので、これは加齢による何らかの脳の状態の変化に由来するもののようです。人間でも老人が切れやすくなったという現象につながるものと思われます。吠えるのが止まらなくなった時は、りくの体の下に両腕を入れ、そのままの格好で上方へ持ち上げるのが効果的です。脚が地面についていないので踏ん張れず、従って声も出ないようです。「大声出しちゃダメなんだよ」と落ち着いて話しかけると静かになります。
朝の散歩の後、気が済むまで外に置きますが、前を通る人や犬への声掛け以外で吠える時は、「姉ちゃんも一緒に外にいて」です。このところ、信じられない速度で伸びる草むしりをしているので、その時は吠えません。
2019年5月18日土曜日
「読書の時間です」
ずいぶん久しぶりの投稿になり、ご心配をおかけしました。改元騒ぎと超大型連休の混雑ぶりをラジオで聴くだけですっかり疲れてしまい、この間ずっと読書に没頭しておりました。本はプリンターで読み取りながらなのでゆっくりですが、わからないことを調べるうち、芋づる式にどんどん読まねばならない本が増えてゆき、書く方がまったくできなくなってしまいました。脇道に入っていって訳が分からなくなりましたが、日本の近代を知ることは、世界史を辿りヨーロッパの近代に再会することでもあります。
最近一番の収穫は、ライプニッツとアルノーの往復書簡の訳書が出ているのを知ったことです。この書簡は、たしか大学一年の後期(すなわちまだ教養課程の時)に文学部の持ち出し講義としてとった「哲学講義」の授業で読んだものでした。あの頃は哲学科に行く気満々で、小さな教室でぽつりぽつりとごく少数の学生しかいない授業でした。暮れていく時間帯の冬学期の寂しい光景をありありと思い出します。テキストは先生が配布するプリントで、それぞれがとっている第二外国語で読めるように左右にフランス語とドイツ語で同じことが書いてありました。元々はフランス語で出版されたもののコピーらしく、フランス語から翻訳されたドイツ語のテキストは読みにくく、ドイツ語選択者にはただでさえ「?」な内容がさらに「??」だった記憶があります。「日本語訳が出ていたのか…」とちょっと愕然、当時もあったのかどうかは分かりませんが。
ヨーロッパの近代はやはりデカルト抜きには語れませんが、デカルト主義的世界観を前提にすると、その先の機械論的自然観と神の意志をどう調和させるかが大問題となってきます。なにしろまだ神の存在証明が哲学的にできると考えられていた時代だったのですから。ライプニッツが『形而上学叙説』で明らかにした考え、すなわち、「各人の個体概念は、いずれその人に起こってくることを一度に全部含んでいる」に対して、アルノーは、「神がアダムを造ろうと決定する時、そのアダムという個体的概念には彼とその子孫に起こる全ての出来事が含まれているのなら、可能的アダムの中から選んで創造した後はもはや神は自由に介入できないことになる」と反論します。ライプニッツの理解では、「神がアダムに対して何らかの決定を行う時、同時にアダムに関する宇宙全体のすべてに対しても配慮して決定する」のだから、矛盾はないというわけです。また、現実敵存在(「なぜ他のようにではなくてそのようにあるのか」)には単に可能性とは別の原理が働き、それは個々の事物のうちにも、事物の全集合及び系列のうちにも見いだせず、究極の原因である神に至るとライプニッツは考え、デカルトの機械的自然観を斥けています。
このように訳の分からない話をじっと考えるなどということは、若い時にしなければまずできないことでしょう。若い時に必要なのは無駄な時間なのですが、現在のご時世ではこんな浮世離れしたことをしている時間はありません。高速情報社会で経験できないものがどんどん増えていく気がします。時代に逆行する形になりますが、今後は大昔に書かれた本をじっくり読んでいくつもりですので、ブログを書く時間が減ると思いますが、どうぞご心配なさらないでくださいね。
最近一番の収穫は、ライプニッツとアルノーの往復書簡の訳書が出ているのを知ったことです。この書簡は、たしか大学一年の後期(すなわちまだ教養課程の時)に文学部の持ち出し講義としてとった「哲学講義」の授業で読んだものでした。あの頃は哲学科に行く気満々で、小さな教室でぽつりぽつりとごく少数の学生しかいない授業でした。暮れていく時間帯の冬学期の寂しい光景をありありと思い出します。テキストは先生が配布するプリントで、それぞれがとっている第二外国語で読めるように左右にフランス語とドイツ語で同じことが書いてありました。元々はフランス語で出版されたもののコピーらしく、フランス語から翻訳されたドイツ語のテキストは読みにくく、ドイツ語選択者にはただでさえ「?」な内容がさらに「??」だった記憶があります。「日本語訳が出ていたのか…」とちょっと愕然、当時もあったのかどうかは分かりませんが。
ヨーロッパの近代はやはりデカルト抜きには語れませんが、デカルト主義的世界観を前提にすると、その先の機械論的自然観と神の意志をどう調和させるかが大問題となってきます。なにしろまだ神の存在証明が哲学的にできると考えられていた時代だったのですから。ライプニッツが『形而上学叙説』で明らかにした考え、すなわち、「各人の個体概念は、いずれその人に起こってくることを一度に全部含んでいる」に対して、アルノーは、「神がアダムを造ろうと決定する時、そのアダムという個体的概念には彼とその子孫に起こる全ての出来事が含まれているのなら、可能的アダムの中から選んで創造した後はもはや神は自由に介入できないことになる」と反論します。ライプニッツの理解では、「神がアダムに対して何らかの決定を行う時、同時にアダムに関する宇宙全体のすべてに対しても配慮して決定する」のだから、矛盾はないというわけです。また、現実敵存在(「なぜ他のようにではなくてそのようにあるのか」)には単に可能性とは別の原理が働き、それは個々の事物のうちにも、事物の全集合及び系列のうちにも見いだせず、究極の原因である神に至るとライプニッツは考え、デカルトの機械的自然観を斥けています。
このように訳の分からない話をじっと考えるなどということは、若い時にしなければまずできないことでしょう。若い時に必要なのは無駄な時間なのですが、現在のご時世ではこんな浮世離れしたことをしている時間はありません。高速情報社会で経験できないものがどんどん増えていく気がします。時代に逆行する形になりますが、今後は大昔に書かれた本をじっくり読んでいくつもりですので、ブログを書く時間が減ると思いますが、どうぞご心配なさらないでくださいね。
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